享和元年(一八〇一)の助郷差村争論に敗れ、村高一五三〇石余のうち、高三一三石の助郷勤高を課せられた西方村は、その後、文政五年(一八二二)三月、向畑・川崎・増森・小曾川・長島の五ヵ村を差村として道中奉行石川主水正役所に助郷免除を出訴した。このときの願書には、
(1)西方村は溜井地元で諸課役が多いこと。
(2)安永九年(一七八〇)、天明六年(一七八六)、寛政三年(一七九一)、享和二年(一八〇二)の大出水に、溜井堤防の決潰防止につとめ、下郷数万石地域の水難を防いだこと、かつ不時の出水に備え、常に水防措置を構じているので、水防の諸色人足入用費が大きいこと。
(3)西方村耕地は底地であるので、水冠りの被害が絶えず、また旱魃のときも旱損を受けやすい。このため不作続きで困窮していること。
(4)西方村は将軍家鷹場であり、近年とくに御用課役が多いこと。
(5)西方村は高三一三石が越ヶ谷宿助郷になっているが、このほか日光御成道大門宿などにしばしば当分加助郷を命ぜられて難儀していること。
とあり、このほか西方村は困窮のため潰れ百姓や退転百姓が増大しているので、人手がなくて村方耕地には手余り地や荒地がふえていることなどを訴えていた。
この助郷免除願いをうけた奉行所では、同年十月、論所地改手代中川寛吾ほか一名の者を西方村に派遣し、現地調査を実施した。論所地改役入は、十月二十五日から十一月四日までの九日間にわたり、西方村名主次郎右衛門宅に逗留し、諸書類の調査や差村五ヵ村の村柄見分を行なった。
その際西方村が論所地改役人に提出した西方村の一年間の課役書上げをみると、元荒川通り堤防修復普請、溜井廻り堤防修復普請、用悪水路や橋梁の修復普請、御鷹御用課役、藻刈り川浚い課役、そのほか、人足に見積ると、合計五六三二人にあたったという。このほか越ヶ谷宿助郷勤めは、文政元年度が人足一三六八人と馬三五一疋、文政二年度が人足一一三四人と馬二九二疋、文政三年度が人足五一七人と馬二二六疋であり諸課役の過重を訴えた。
このときの奉行所取調べはきわめて早く、同年十一月訴答村々に召喚状が発せられ、同月二十二日に裁許の申渡しがあった。これによると、西方村諸課役の過重は相違ないので、高三一三石の越ヶ谷宿助郷勤めを全高免除する。その代りとして、小曾川村の村高四五五石余のうち高一二八石と、増森村の村高六五九石余のうち高一八五石、合せて高三一三石を改めて越ヶ谷宿助郷に申付るとある。
因みに、当時越谷地域で助郷を勤めなかった村は、溜井地元の大吉村、増林村、瓦曾根村を除き、増森村、長島村、小曾川村、中島村であり、いずれも村柄のよくない土地とされた所である。このほか川崎村と向畑村が村高のうち半高助郷を勤めていたのは前述の通りである。