十方庵遊歴雑記

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文化・文政(一八〇四~三九)の頃、江戸の小日向町に住む釈大浄という一向宗の僧侶が、江戸の近郊を歩きまわり、「十方庵遊歴雑記」と題した紀行文を著している。この「十方庵遊歴雑記」には、文化十四年(一八一七)三月、大浄が越ヶ谷宿に帰郷中の友人池田山鼎を訪ね、越ヶ谷本町の池田屋吉兵衛方に宿泊して越ヶ谷周辺を見聞したときの記録も載せている。

 これによると、「武州埼玉郡越ヶ谷の駅は、日光街道にて江戸より六里なり、此駅都会の土地にて呉服屋をはじめ、万の商人集ひ、住用便、当宿に足れりとみゆ、町の長さ二十二町、荘観の駅路といふべし」とあり、越ヶ谷宿は日光道中の都会で、生活用品のすべてはこの宿内で間に合う。商家が軒をならべた二二丁にわたる町中は荘観であると語っている。

 また大浄が逗留した池田家は、「若干の水油を紋り、また塩の問屋で諸国の塩を引請け貯え持てり、よって塩屋吉兵衛とも号す」とあり、住居の広きこと二、三千石以上の邸宅のようだとある。屋敷の奥行は三町程あり、両側に塩や油などを入れた土蔵が一八棟も建ちならび、数十人の使用人が忙しく働いている。さらに当家には、客人用の縮緬夜着一〇〇人前、縮緬の蒲団二〇〇人前、緞子の夜着一〇〇人前、太織物の夜具一〇〇人前を備え、本陣が差支えのあったときは大名の宿泊所にあてられたこともあるといい、道中でも名の知れた分限者であるので、道中の馬士・駕籠かき達が、〝越ヶ谷の天下さま〟と称しているというが、成程と思われると、その豪勢な商家の様子を記している。

 また大浄たちを迎えた池田家では、二人の使用人に早馬を仕立てさせ、一人は日本橋、一人は神田多町へ走らせ鮮魚と青物を仕入れたという。江戸との距離は想像以上に近かったことが知れるが、この池田家の心遣いは、はじめての珍客のための饗応であったとともに、「越ヶ谷は田舎なれども何ぞ江戸者に負けんや」との気慨が窺えたと大浄は語っている。その夜は奥座敷で酒宴が催され、三味線、つづみ、笛、太鼓の合奏で興が添えられ、山海の珍味がだされたとある。しかし、池田家の平常は質素を第一とし、家内四人みな綿服をまとい、女房や嫁は縫いもののかたわら糸車を廻して下女たちの手助けをし、亭主と息子は使用人とともに働いて家業に精をだしているという。これら大浄の記述によって、当時の活気ある商家の、様子の一端を知ることができよう。