町の娯楽

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「十方庵遊歴雑記」によると、越ヶ谷町の分限者池田屋吉兵衛は角力を好み、鎮守の祭礼には江戸の名のある力士を呼んで勧進角力をしばしば興行していたという。当時角力は人びとの娯楽の中心の一つであり、機会あるごとに江戸の力士を招いて角力興行を行なっていたようである。

 たとえば「大沢町古馬筥」によると、天保五年(一八三四)、江戸の角力年寄役甲山半五郎が興行主となり、大沢町名主江沢家の裏庭に二五間四方の会場を設け、五日間の角力興行を行なっている。つづいて天保八年にも江戸の角力行事木村庄之助が興行主となり、大沢町光明院境内に二〇間四方の会場を設け、三日間の興行を行なった。このときの角力興行契約金は、金六五両であったという。

 また、鎮守祭礼も豪勢なものであり、天保八年(一八三七)九月の大沢町香取社の祭礼には、町中にさじきをかけ渡し、江戸から太夫や踊子を呼び、長唄・富本・清元などを演じさせている。越ヶ谷本町内藤家の「記録」によると、越ヶ谷町でも天保六年九月十日の鎮守祭礼には、久方ぶりの神輿渡御とあって、亭主や若者は白地木綿に鼠返しの角字を染めた揃いの浴衣、子供達は御納戸木綿に菊すり込模様の浴衣を新調し、町内によっては山車をくり出すところや屋台を設けるところもあった。ことに前日の宵宮には、子供太夫の手踊りが夜おそくまで演じられたとある。なおこのときの祭礼費用は金五八両であったという。

昭和初期の久伊豆神社祭礼(御殿町染谷氏提供)

 このほか寺社の縁日などには芝居や花火がさかんに興行されたが、幕府の取締りにあったり火災や喧嘩の事故のため、大きな騒ぎになることもあった。たとえば天明元年(一七八一)三月、越ヶ谷袋町の円蔵院境内で香具女芝居の興行が行なわれたが、一人の見物人の乱暴狼籍に端を発し、越ヶ谷・大沢両町を二分にした大喧嘩に発展し、死者まででる騒ぎをおこしている。安永四年(一七七五)の七月にも、大沢町弘福院観世音開帳で手踊りの興行中、大喧嘩があり、代官所の手入れがあって入牢者をだす始末であった。また火災事故では寛保三年(一七四三)七月、大沢町弘福院観世音開帳に興行された花火で弘福院が全焼する火災をおこしている。

 当時はこうした人寄せの興行は御法度とされ、幕府の取締り対象になっていたが、少々は大目にみられていたようである。それでも幕府の取締りをうけ、きびしい処分をうけることもしばしばあった。たとえば文化十二年(一八一五)九月、大沢弘福院境内で子供芝居の興行が行なわれた。江戸から富代という歌舞伎役者の振付師を招き、踊子たちの振付を頼むという大掛りな興行であったが、代官大貫次右衛門役所の手入れをうけ、奉行所に起訴された。このため翌十三年七月、勘定奉行曲淵甲斐守の裁許により、手踊り興行の関係者四人が手鎖の罰、九人が急度御叱りの罰という申渡しをうけた。

 このように町の諸行事は派手を競って問題をおこすことがあったが、これらはすべて江戸の風俗を真似る傾向にあったためとみられる。たとえば、当時江戸でさかんに行なわれていた富くじ興行もその一つであろう。「大沢町古馬筥」によると、天明年間(一七八一~八八)、船橋大神宮興行の富籤を大沢町照光院に招き、一の富籤百両当りの富籤を開催した。このとき大沢町会田次郎右衛門方の店先で戸板を開げ、照光院で開かれた公許の富籤の当り番号を予想して銭を賭けた〝かげ富〟が執行されたが、むしろこのかげ富の方が繁昌したとある。

 また、江戸で評判の女芸者を呼んだこともあった。文化十三年(一八一六)の大沢町大火後、永田屋永吉という者が江戸の女芸者を大沢町に置いたが、ことのほか繁昌したという。女髪結も、四、五人の女髪結が同じく文政年間に大沢町で開業をはじめたが、奢りのきわまりしこと察すべしと、「大沢町古馬筥」の著者を嘆かせた。また正月松の内だけであった朝風呂が、文政年間大沢町の竹の湯が常時朝風呂をはじめてから、大沢町のすべての湯屋も朝風呂をはじめるようになったという。

 さらに当地域でさかんである遠州流の生花は、幸手宿の生花師匠春暉庵一樹の弟子であった大沢町髪結渡世春々庵一無が遠州流生花を教えはじめ、寛政年間(一七八九~一八〇一)から越ヶ谷宿一般にひろがったものであるという。(この春々庵一無は俗名永蔵といい、浪人の身であったが、のち元の主人に再び仕官したとある)

春暉庵一樹の墓(大沢光明院)

 このほか元荒川の船遊びも行なわれていたようである。「十方庵遊歴雑記」によると、〝似たり〟とかいう大きな船に、左右に三本づつ柱を立て、丹後縞の大湯単を天幕とし、川幅およそ一四間、流れゆるやかな元荒川を大沢から野島村までさかのぼったことが記されている。また「大沢猫の爪」によると、寛政二年(一七九〇)、大沢町照光院門前地借三六という者が、元荒川の船中で三笠付賭博を興行していたとあり、元荒川に遊び船がうかんでいたことを窺わせている。

 こうみてくると、宿民の当時の生活は想像以上に華やかなものであったとみられる。ことに越ヶ谷・大沢両町は、道中の宿場であった関係から、他町村の人びとが多数集まる場所であり、こうした人びとを見物対象に興行されたものも多かったであろう。