寺院と越ヶ谷町

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越ヶ谷町の住民はすべて越ヶ谷天嶽寺の檀家であったので、天嶽寺の法会その他の行事は、そのまま越ヶ谷町単位の行事となることが多かった。たとえば、内藤家の「記録」によると、安政六年(一八五九)三月は、浄土宗円光大師の六五〇回忌にあたり、天嶽寺で円光大師の追善法会が執行された。このときは越ヶ谷町各町内の役人二、三名づつが世話人となり、帳場その他の行事の役割りを分担した。当日は楽人僧六人、稚児六、七人が庫裏から本堂に行列をつくり、盛大な法会が催されたが、このときの越ヶ谷町住民の奉納金は金四一両余に達したとある。

 また天岳寺では例年六月十一日から天嶽寺方丈達が、町方に托鉢に廻ったが、町内の者に、この托鉢には一文でも二文でも進んで喜捨するよう町役人の名でこれを触れた。さらに、天岳寺内の諸普請にも町内の行事が世話人となり、寄付を集めた。たとえば弘化三年(一八四六)三月、天嶽寺門内の敷石敷替えにあたり、町内行事役が寄付を求めて廻ったが、このとき越ヶ谷本町内藤家では、一枚銀六匁の玄場敷石七枚の割当てをうけた。

 このほか越ヶ谷町では天嶽寺の奉仕のみでなく、大相模不動尊の開帳にも、町内ごとに奉納金を納めることがあった。たとえば天保十年(一八三九)三月十四日、不動尊の中開帳の際、越ヶ谷本町組では、大沢町や中町・新町とならび、境内に〝金札小庭〟を設けた。ここには醤油樽二〇〇本を積上げ人形を飾った。このほか金五両の奉納金を不動尊に納めたとある。このときの本町組の総出費は、金一九両一分であったとあるが、おそらく宿場の宣伝を兼ねての奉仕であったとみられる。