越ヶ谷町の鎮守神は、本町が市神社、中町が浅間社、新町が八幡社であったが、総鎮守(別当は四町野村迎摂院)は越ヶ谷の久伊豆社である。この久伊豆社は越ヶ谷町のほか、四町野・神明下・花田・瓦曾根・谷中・七左衛門各村の総鎮守でもあった。
久伊豆社の境内に精誠感応の碑という嘉永四年(一八五一)に建てられた石碑がある。これによると文政九年(一八二六)は、大旱魃であったので、田畑の作物が枯死寸前にあった。これに困った越ヶ谷町有志一同は当社に参集し、雨乞訴願のため大般若経を転読したところ、たちまち雨があった。そのほか水難除け、疫病除けに神力の加護が大きかったとして、一同でこれを建てたものである。江戸時代を通じ、久伊豆社は災害除けの守護神として、越ヶ谷町住民をはじめ、関係各村の信仰をあつめていたことが知れる。
越ヶ谷町の雨乞行事の様子を、内藤家の「記録」によってみると、天保十年(一八三九)の夏は、日照りが続き稀にみる極暑であった。人びとは昼夜水車で水を汲上げて耕地に灌水したが、耕地をうるおすことができず、旱魃のおそれが濃厚であった。このため越ヶ谷町と耕地続きの神明下村・谷中村、四町野村が越ヶ谷町と合同し、人足一〇人を選んで雨乞のための御水を榛名山に戴きに出張させた。一行は六月十日に越ヶ谷町を出立し、同十三日の朝に帰村した。榛名の御水の分配をうけた越ヶ谷町では、当日の午前一〇時頃から、本町・中町・新町の家別に人びとを動員させた。この動員された人数は三組に分けられ、まず本耕地の田から榛名の御水をひたした笹を振って廻った。本耕地の田を終えると新町の街道に出て、町通りを袋町に抜け、花田耕地に出てまた笹水を振って廻った。このあと一同は久伊豆社に参集し、御神酒を半樽ほど明けて、午後二時頃この雨乞祈願行事を終了したとある。このときは祈願後もなかなか雨がなかったが、七月に入ると雨が降り、どうやら稲作は平年作にもち直したという。なお雨乞いに用いる御水は、榛名の御水のときもあったが、板倉様(上州板倉雷電社)の御水であったときもあった。
また江戸時代は伝染病の予防やその治療も不完全であったので、ひとたび疫病が発生すると、ただ神仏に祈願して疫病からまぬかれようとつとめるばかりであった。ことに安政五年(一八五八)七月から八月にかけて流行したコレラ病は人びとの恐怖をつのらせた。このコレラは同年五月、米艦ミシシッピー号が沖縄から長崎の出島に来航したあとで流行したもので、同年七月下旬には東海道筋を経て江戸に伝播し、上総・安房にまで広まった。コレラは当時暴瀉病といわれたが、患者がコロリコロリと死ぬので、一名コロリともいわれて恐れられた。このコレラによって死亡した人数は、徳川一三代将軍家定をはじめ、江戸市中だけで二万八〇〇〇余人に達したといわれる。
幸い越ヶ谷周辺ではコレラの流行をみなかったが、内藤家「記録」によると、恐怖におののいた越ヶ谷町では、同年八月二十八日、疫病除けとして越ヶ谷久伊豆社の神輿を町内に迎えることになった。このように不時に神輿を町内に迎えることは、前例のないことであったという。当日昼頃、久伊豆社を出立した神輿は、越ヶ谷町三町をあますところなく廻り、本町の三鷹屋の店先に設けられた御仮屋に安置された。越ヶ谷住民は、各町内ごとに順番に神輿へ参拝して厄除け祈願を行なったが、後番にまわった新町組の参拝祈願は夜ふけになったという。翌日とその翌日は在郷の氏子が参拝祈願を行なったが、草加宿や粕壁宿からも祈願に参集した者がいたとある。