江戸幕府は、江戸時代中期以降社会・経済的に弛緩してきた封建道徳を改めて教化し、かつ風俗の匡正をはかるため、しばしば褒賞政策をとって封建道徳の強化につとめた。褒賞の対象は、主に慈善・孝子・長寿などである。
当地域の褒善者としては、たとえば『五街道取締書物寄』によると、代官大貫治右衛門支配所、武州埼玉郡大里村の名主兵左衛門(深野氏)は、日光往還道普請場の手入れを怠りなく勤めた。このため雨のときでも泥濘などで歩行が困難になることがなく、常に綺麗な道路を保っていた。これが代官の知るところとなり、文政六年(一八二三)六月奇特な行為として幕府からこれを褒賞されている。
なかでも、幕府は孝子の表彰にはとくに力を入れ、寛政六年(一七九四)閏十一月、足立郡蕨宿百姓八五郎夫婦が、親に孝行を励んだとして夫婦に御褒美銀八枚、母の孝養手当として、母の存生中一日米五合の扶持米を与えるなど、多くの孝子を褒賞している。越ヶ谷宿においても、文政十年(一八二七)六月、越ヶ谷町店借文太郎がその孝を賞され、老中水野出羽守から表彰をうけていた。
孝子文太郎は安永六年(一七七七)の生れ、生まれてまもなく父に死別したため幼いころから母のたけと一緒に日雇い稼ぎをして貧乏な家計を助けた。子守奉公をしていた姉が結婚してからは、文字通り母一人子一人の家内となったが、実直な文太郎は母に孝養の限りをつくした。文太郎三〇歳のとき嫁を迎えたが、気性のはげしい母と嫁との折り合が悪く、まもなく嫁は家を出て離婚になった。その後周囲の者がしきりに文太郎に再婚をすすめたが、母の気持に合わないような嫁をもらっては、かえって親不孝になるからといい、あくまで独身を通した。母が年をとり歩くことも困難になってからは、文太郎の親孝行ぶりはますます献身的になった。毎朝老母に食事をとらせてから伝馬人足の賃稼ぎに出掛け、夕方早々に帰宅しては母の好きな酒を用意して食事をととのえ、肩をたたきあるいは体をもむなどしてなるべく多くの時間を母とともに過すよう心がけた。さらに夜中の小用の手助けはもちろん、亡父の毎月の命日には、十二、三町も離れている天岳寺まで母を背負って仏参もかかさなかった。孝行者の評判は、近隣農村にまでひろがり、やがてこれが代官伊奈半左衛門の耳に入り褒賞された。このとき幕府は文太郎に褒美として銀五枚、母たけの孝養扶持として終生一日米五合を支給することにした。そして「しかる上は、越ヶ谷宿は申すに及ばず、近郷のものども一同勧善の一助にも相成べき儀につき」とて、世間の模範としてひろくこれを伝える措置をとっている。
なおこの褒賞政策は、政権を幕府から交代した明治政府もこれを受つぎ、当時孝子のほまれが高かった大沢町百姓秦野杢次郎に対し、明治四年(一八七一)九月、当支配小菅県令河瀬外衛が賞状とともに金三〇〇疋を添えてこれを褒賞している。ついで明治五年埼玉県令野村盛秀、さらに明治七年埼玉県令白根多助からもそれぞれ賞状とともに銭五〇銭を下賜されている。