三鷹屋内藤家

945~946 / 1301ページ

越ヶ谷本町の内藤家(現都内江戸川区平井居住)に、文政九年(一八二六)から明治元年(一八六八)にいたる三冊の「記録」と題した和綴本が残されている(越谷市史(四)七二一頁所収)。これは内藤家八代を称する嘉兵衛と、その嫡子勘兵衛の親子二代にわたって書継がれたもので、その内容は、内藤家の主な事歴を中心とした家事の記録書である。

 内藤家八代嘉兵衛は、文政八年(一八二五)十月、先代勘兵衛が栗橋宿の商用先で急逝したあと年二七才で家督を継いだ。嘉兵衛は嘉永五年(一八五二)五月、新任の代官斎藤嘉兵衛との同名を避けて勘兵衛と改名した、そ後の安政六年(一八五九)二月、病気のため家督を嫡子儀兵衛に譲って隠居したが、このとき再び嘉兵衛と改名し、忰儀兵衛に勘兵衛を襲名させている。しかし、両者の識別上、その名が紛らわしいので、以下の記述に際し、内藤家八代を嘉兵衛、内藤家九代を勘兵衛に統一する。

昔の俤をとどめる商家(越ヶ谷本町遠藤家)

 内藤家は屋号を三鷹屋と称し、高一五石八斗六升五合の越ヶ谷町百姓である。大沢町福井猷貞著になる「越ヶ谷爪の蔓」によると、内藤家は享保年間(一七一六~三六)、常州水戸から越ヶ谷町に移り住んだとあるが、その詳細は不明である。宝暦三年(一七五三)から農間に質屋を営み、古着などを商っていた。家族構成はそのときによって増減があるが、天保二年(一八三一)の人別書写によると、当時下男下女五人を含め八名の家内と馬一疋であり、越ヶ谷町高持百姓の標準的な階層と思われる。以下内藤家の当時のくらしを、内藤家に残された前記三冊の「記録」によって、その一端をみていこう。