商家の交際

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三鷹屋内藤家の縁戚には、文政年間(一八一八~三〇)当時、越ヶ谷中町紀伊国屋半七、同じく中町丸子屋弥兵衛、同本町蒟蒻屋弥兵衛、同中町塗師屋市右衛門、同新町松本利兵衛、同新町分家権二郎、大沢町泉屋惣兵衛など、越ヶ谷宿内の縁戚がほとんどである。このほか二郷半領幸房村の堀切権左衛門なども親戚であり、親しく交際している間柄であった。

 また、三鷹屋は古着などの商いをしていた関係を含め、その交際範囲はかなり広かったようである。これを火事見舞の記事から拾ってみると、文政十二年二月の江戸日本橋周辺の大火事には、日本橋大文字屋嘉兵衛、同じく近江屋三右衛門、富沢町富田屋惣兵衛、京橋畳町越中屋八郎兵衛、五郎兵衛町松屋吉郎兵衛に見舞の品を届けているし、天保五年(一八三四)二月の日本橋を中心とした大火事にも、富沢町富田屋惣兵衛、同富田屋伝吉、同大村屋儀右衛門、同大黒屋又兵衛、高砂町高城周斎、日本橋大文字屋嘉兵衛、村松町伊勢屋源兵衛、橘町富田屋清吉、新道大塚屋新兵衛、芝口二丁目井筒屋長兵衛、京橋松屋吉右衛門に、醤油や大豆そのほかの金品を類焼見舞に届けている。

 また天保六年三月の粕壁町の大火には、酸漿屋惣左衛門、大和屋武八、松本屋民二郎、金子屋丹蔵、松本屋庄助、鈴木兵右衛門、栃木屋勝五郎、堺屋吉兵衛、大和屋九左衛門、および名主次郎兵衛に、やかん、茶椀、重箱などを類焼見舞に届けている。これらの人びととの交流関係はつまびらかでないが、古着仲間の交際を含め、なんらかの交際があったことは確かであろう。

 因みに古着屋仲間に関しては、越谷周辺の古着屋は、いずれも野州宇都宮町の古着屋仲間に加入していた模様である。天保十二年閏正月、粕壁町の古着屋玉屋長蔵が、宇都宮古着屋仲間に対し不都合があり、仲間取引を停止されようとした一件がおきた。これに対し越ヶ谷町古着屋仲間一同は、仲間取引を除外されようとしている玉屋長蔵と、宇都宮古着屋仲間行事の間をとりもつため、この仲裁人として三鷹屋嘉兵衛を選んだ。

 三鷹屋は同年一月二十一日粕壁町の仲裁人惣代金子屋丹蔵とともに宇都宮町におもむき、仲間行事と折衝を重ねたが、この結果二月四日、宇都宮古着屋仲間年行事三名と、玉屋長蔵との間に手打ちが行なわれ和解が成立した。このとき三鷹屋は、宇都宮古着仲間重立衆から酒肴のもてなしをうけ、駕籠で小山宿まで送られていねいな挨拶をうけたという。ところが、宇都宮町での手打ちのあと、玉屋長蔵は粕壁・越ヶ谷両宿の古着屋仲間へ挨拶をしなかったので、こんどは地仲間との間で紛争となった。この両者のもつれにまた仲裁人が立ち入り、翌天保十三年二月、越ヶ谷・粕壁両宿で宇都宮明神に太々神楽を奉納することになった。このあと手打ち仲間五〇余人が料亭市ノ守座敷に参会して手打ちとなった。

 これらの費用は金二五両余であったが、これを玉屋長蔵が負担し、仲間同志の和解がすべて整ったという。なお弘化三年(一八四六)五月、宇都宮古着屋仲間が宇都宮明神に石垣を奉納した際、大沢町と越ヶ谷町の古着屋仲間が金五両をこれに寄進している。