三鷹屋は、自家あるいは親戚などの祝儀・不況儀の祭、それ相当の金品を贈りまた贈られているが、このうちいわゆる帯解(おびとき)と称せられる七才祝いがさかんであったようである。たとえば文政十年(一八二七)十一月、新町松本利兵衛の忰岩吉の七才祝いには、三鷹屋は祝儀として金一両と扇子箱、それに洒を贈っている。また安政二年(一八五五)十一月、勘兵衛の長男蔵之助が七才祝いのときは、親類をはじめ向五軒両隣りの者を夕方から自宅に招き、酒と引膳で振舞(ふるまい)を行なったが、この蔵之助の宮参りの着付は、黒紋付の川越亀綾羽織に琥珀の小袖、それに丹後袴であったとある。このときの諸掛りは金一七両余であったが、このうち金三両二分余が近所や親戚からの祝儀金であった。
なおこの蔵之助は嘉永二年(一八四九)十月二十八日の出生であるが、無病息災のための当地域の風習とみられ、十一月一日の夜、蔵之助を新町会田弥兵衛方の店先に捨子している。弥兵衛方では捨子の蔵之助を拾いあげ、名付親となってから改めてこれを勘兵衛方に返していた。
このほか越ヶ谷町は町方であった故か、子供のための節句祝も行なっていた。たとえば天保八年八月、勘兵衛の長男勘太郎が出生したとき、三鷹屋では小豆飯でこれを祝い、二十一日目に宮参りを行った。翌天保九年五月五日は勘太郎の初節句である。このときは近所や親戚六〇軒から祝儀がよせられたが、これに対し三鷹屋では、赤飯一軒あたり一升二勺宛六三軒に配っており、この諸掛りは金一三両余であった。また天保十五年(一八四四)三月三日は、勘兵衛の長女やすの初節句にあたっていたが、このときは金五両一分と銭三二四文で雛三組と諸道具をととのえ、金二両一分と銭三五〇文で酒や肴、それに餅を購入しこれを祝ったとある。なお勘兵衛の長男勘太郎は、初節句を祝った同年の十一月二日、疱瘡(天然痘)によって発熱、同五日疱瘡が出て小康状態になったが同十一日にいたりにわかに病状が悪化し、翌十二日に死亡している。
また三鷹屋は、幾度か葬式をだし折にふれて法事を行なっているが、このうち天保二年八月に越ヶ谷天岳寺で嘉兵衛が営んだ父勘兵衛の七回忌法事をみると、そのお布施はつぎのごとくである。まず天岳寺本坊には米一升と銭六〇〇文、天嶽寺の塔頭のうち、善樹院に塔婆料として米一升に銭一〇〇文、ほか同院に取次料銭五〇〇文、寺内塔頭霊光院・法久院・遍照院・松樹院に各二〇〇文、勧化と役僧六人に各銭一〇〇文宛、堂番に銭三二文の布施であった。このほか三鷹屋の家では赤飯一斗三升を炊き、親類や近所に配ったとある。また弘化二年(一八四五)三月、嘉兵衛妻の一周忌と勘兵衛娘の四十九日追善供養には、天嶽寺本坊に御布施金二朱、取次善樹院に金二朱ほか塔頭四ヵ寺に各銭三〇〇文宛の布施を行ない、法事の総費用は金三両一分であった。
天保六年(一八三五)六月、当主嘉兵衛の母やすが、七四歳で病没したときの葬式諸掛りは、金九両三分二朱であったが、このうち寄せられた香奠が三〇口、金七両一朱と銭一貫四〇〇文であった。このとき、生前やすが着ていた衣類二八点が関係者に形見わけされたが、これらの衣類は、細藍返し小紋女袷小袖、御納戸紬紋付小袖、格子縞女惟子、縮緬女単物、花色緞子女帯、青梅女わた入、格子縞女単物、なるみ絞り女単物、紫廻りむく女小袖、縞木綿女袷、縮緬羽きく重小袖、縮緬小紋女小袖、半天花色琥珀女帯、けんほう紬女小袖などであり、町方で使用された衣料の一端が知れよう。