信心と寺社参詣

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三鷹屋は越ヶ谷町の住民であったので、当然越ヶ谷天嶽寺の檀家であったし、また本町鎮守市神社、ならびに総鎮守越ヶ谷久伊豆社の氏子でもあった。しかし三鷹屋の信仰宗派は日蓮宗であったとみられ、日蓮宗寺院との関係が深い。たとえば三鷹屋の初参りは、例年武州多摩郡堀之内(現東京都杉並区堀之内)の日蓮宗妙法寺に参詣し、家内安全祈願の御百度をあげて、金一〇〇疋の開帳料を納めるならわしであった。文政八年(一八二五)七月、日蓮宗身延山久遠寺が焼失したとき、久遠寺再建資金募集のため各所に結成された寄進講のうち、江戸富沢町の講中に加入し、金七両を納めている。このとき富沢町講中では、堀之内妙法寺絵馬堂に寄進札が建てられたが、講中の奉納金額は金七〇〇両であった。嘉兵衛はその後、文政十一年六月、身延山参詣に出立し、二十日ほど逗留している。

 また天保二年(一八三一)十月、父勘兵衛七回忌法要が越ヶ谷天岳寺で営まれたが、別に赤岩村(現北葛飾郡松伏町赤岩)日蓮宗蓮福寺に追善供養を頼み、回向料金二朱を同寺に納め、かつ親類や近所の人とともにさかんな題目講をつとめた。その後、天保九年八月には、赤岩村蓮福寺に樫木の賽銭箱を寄進しているが、この代金は金一両三分二朱であった。

 弘化元年(一八四四)七月十四日、嘉兵衛の妻むめが死亡したときも、葬式は越ヶ谷天嶽寺の僧によって執行されたが、同時に増林村日蓮宗法立寺に回向を頼み、むめの戒名を授かっている。ついで同十七日には、法立寺と蓮福寺の僧を自宅に招き、むめの回向法要を行なったが、翌弘化二年二月、三鷹屋で行なった先祖の施餓鬼供養にも、蓮福寺が勤めた。さらに同年三月嘉兵衛は再び身延山参詣に出立、久遠寺に先祖供養のための十七ヵ年分の月牌料を納めている。このときの諸掛りは金八両一分余であった。

赤岩の蓮福寺

 このほか三鷹屋嘉兵衛の神社信仰では、とくに下総国駒木村の日蓮宗成願寺別当社諏訪宮(現流山市)に信心が厚く、文政八年(一八二五)九月、同社本殿の再建普請には金二両を奉納している。また嘉兵衛が眼病を患ったとき、同神社に心願を立て、天保二年六月、燈籠一対を寄進した。燈籠の代金は金一七両二朱であったが、奉納祝儀その他で合計二四両三分余の諸掛りであったという。なおこの灯籠はいまでも同社の境内に残されており大切に保存されている。ついで嘉永五年(一八五二)、同社の出開帳を三鷹屋宅で行なっているが、この出開帳の奉納金は、賽銭ならびに御礼料、御供米料とも金二〇両三分余であった。このほか天保四年五月には、赤岩村鬼子母神堂へ、代金一両三分二朱の真鍮三ツ具足を奉納しているが、これは赤岩村蓮福寺の関係かどうかつまびらかでない。

駒木の諏訪宮(流山市)
内藤氏奉納の灯籠(駒木諏訪宮)

 また、嘉兵衛は商用旅行のほか伊勢神宮や日光山などに神仏参詣の旅行をしているが、これはむしろ物見遊山の行楽であったようである。このうち伊勢参宮は、粕壁宿の太々講中に加入し、一行一八人とともに嘉永元年(一八四八)一月二十四日越ヶ谷宿を出発している。このとき伊勢参宮を終えた嘉兵衛は京都から一行と離れ、長州下関から海を渡り、九州肥前の長崎を見物、さらに肥後熊本まで足をのばして清正公(せいしょうこう)に参詣している。帰路は中山道を通り、上州草津で旅の疲れをとり、同年七月一日に帰宅した。この間実に五ヵ月有余の旅である。無事帰宅した嘉兵衛は、道中加護の神恩を謝し、本町鎮守市神社に、小紐唐金径一尺の鰐口を奉納した。

 このほか日光山へは二度ほど参詣しているが、妻などをともない、いずれも十日間ほど滞在している。上州草津にも二度ほど湯治におもむいているが、このときは一カ月半から二カ月の逗留である。ことに嘉永六年五月から七月にかけての草津逗留では、嘉兵衛の痔疾が全快したと喜んでいる。