三鷹屋の家計

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安政六年(一八五九)二月、年六一歳を迎えた嘉兵衛は、その子勘兵衛に家督を譲り隠居した。嘉兵衛が文政八年(一八二五)先代勘兵衛の急逝によって三鷹屋を相続したとき、三鷹屋に残されたが元資金(もとできん)は金一二八〇両一分であった。嘉兵衛がその子勘兵衛に家を譲った安政六年には、この資金は金二四九六両一分二朱になっており、金一二一六両二朱の増加であった。この伸びは、嘉兵衛三三ヵ年の相続中、一カ年平均金一七両の資金増大である。

 この間臨時支出のおもなものは、先代が新町会田弥兵衛から借りうけた年賦金の返済金二六〇両、天保三年と弘化四年に施工した前蔵の修復金一七八両余、嘉永元年の伊勢参宮旅行諸掛り金五〇両、天保十五年嘉兵衛妻むめの病中諸掛り金五〇両、安政四年、前年の地震によって倒壊した二番蔵の建替え普請金二一五両、安政五年同じく三番蔵の建替え普請金一九四両一分二朱、合計九四七両一分二朱で、貸倒れはなかったという。このうち安政四年の二番蔵ならびに安政五年の三番蔵建替え普請に際しては、たとえば安政四年が延一二八四人の職人であったが、この飯料は一日一人あたり銀一匁であり合計金二八両の飯代であった。当時米相場は米六合五勺で銭一〇〇文(小売)であったという。

 いずれにせよ嘉兵衛の代は、天保の飢饉や安政の地震など幾多の天災地変があり、その経営も困難なときであったであろうが、貸倒れを出さなかったという嘉兵衛の堅実な経営により、幾らかでも資金の蓄積ができたものと考えられる。