商家の奉公人

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三鷹屋内藤家は、文政六年(一八二三)八月、下野国結城町の三村屋儀八の忰竹蔵を十ヵ年季の契約で奉公に抱えた。当時竹蔵は一二歳であった。のちの天保二年(一八三一)の宗門人別書写しによると、三鷹屋の奉公人は当時二〇歳の竹蔵、一四歳の忠次郎、同じく一四歳の松五郎、四七歳の甚兵衛、二〇歳のはるの五人であったが、一二~一三歳位から奉公人に雇うのが普通であったようである。

 文政六年に三鷹屋の奉公人となった竹蔵は、生来の酒飲みであり、身持が悪かったので、三鷹屋では文政十二年二月、竹蔵一八歳のときに一たん親元へ帰した。その後世話人たちが竹蔵の保証人になることで詫を入れてきたので、竹蔵は再び三鷹屋に戻ることができた。ところが天保二年一月二十五日の町内題目講に、竹蔵を嘉兵衛の代人として参会させたところ、竹蔵はそのまま家に戻らなかった。熹兵衛は驚いて竹蔵の親元や保証人たちにこれを連絡した。翌月の二月十二日、竹蔵は保証人に連れられて三鷹屋に戻り、かたく禁酒をちかって保証人ともども謝罪した。このときは嘉兵衛はその言葉を信じこれを許した。翌月三月八日、嘉兵衛は竹蔵に金子五両を持参させ、下総国野田町へ商用に出張させた。ところが野田へ向った竹蔵はまた三鷹屋へ戻らなかったので、嘉兵衛はついに竹蔵の衣類二三点とともに、竹蔵を保証人に引渡し、年季契約を破棄した。竹蔵二〇歳のときである。

 つぎに奉公人松五郎は、下総国穀屋喜兵次の甥であったが、文政十三年一三才のとき、奉公身代金のうち内金一両をもって三鷹屋の奉公人になった。松五郎は実直に家業にはげみ、天保五年二月一八歳のとき、元服して松兵衛を名乗った。このとき主人嘉兵衛から、元服の慣例として、髪結祝儀銭二〇〇文と半紙一帖それに脇差が与えられた。天保十三年二月、松兵衛二五歳のとき、大沢町松賀屋儀助の仲人で三鷹屋別家である新町の伝兵衛方へ聟入りすることになった。このとき伝兵衛方からは結納袴代として金三〇〇疋・酒樽一荷・鰹節二本・白髪・末広の五品が届けられた。三鷹屋からは、帯代金五〇〇疋・酒樽一荷・鰹節二本・白髪・末広・半紙五帖・のし、以上七品を送ったとある。

 三鷹屋の奉公人松兵衛は、永年実直に勤めた結果この人柄が認められ、三鷹屋の別家の当主となったが、こうした例は珍しいものであったろう。内藤家「記録」を通じ、奉公人は数多くいたが、頻繁に代っていたのが実情である。