困窮者の救済

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越ヶ谷宿の住民構成は、その絶対数が地借・店借の無高層によって占められていたのは、前章近世後期の越ヶ谷宿において述べた通りである。幕府は宿・村にかかわらず、これら無高層への救済は、大災害などによる人命の救助対策をのぞき、原則としてこれを無視していたので、これら無高層の困窮者救済は、宿・村の高持層によって行なわれた。

 宿・村の高持層は、災害や飢饉などのつど、米や金を醵出して困窮者を救った。『新編武蔵風土記稿』によると、蒲生村の名主仁兵衛は享保年間(一七一六~三六)の水害不作に、多くの窮民を救済したが、幕府から白銀三枚を贈られ奇特な行為を賞されたという。なかには関東郡代所御貸附役所や猿屋町会所貸附役所などの幕府の金融機関を利用し、その預け入れ金や利息をもって救済資金にあてることもあった。瓦曾根村観音寺境内の碑文によると、瓦曾根村の名主中村彦左衛門は、凶年手当用として、関東郡代所御貸附役所へ金子を預け入れていたが、天明年間(一七八一~八九)の凶作に際し、この預金をおろして困窮者の救済にあてた、ついで天保七年(一八三六)の凶作にも、猿屋町会所貸附役所の預金利子金九二両をもって、瓦曾根村総人口四五〇人のうち九二人の窮民へ一人あたり金一両宛の施金を行なっている。

 ことに天保期以降幕末にかけては慢性的な冷害・水害による不作と、諸物価の高騰が続き、小作人層や零細な小百姓のなかから困窮者が続出した。これに対し各宿・村の重立百姓が、しばしばこれら困窮者に施米や施金を行なっている。この間の事情を、越ヶ谷本町(第31表参照)と大沢町の場合でみてみよう。

第31表 越ヶ谷本町組困窮人施行
期日 施行者数 被施行者数 備考
天保4年10月13日 6名 101軒 1軒あたり米1升7斗
天保5年6月13日 17名 99軒   〃 米1斗5升別に地主方から5升
天保7年7月26日 15名 98軒   〃 米1斗1升 独身者6升
天保7年8月4日 110軒 1人1日白米5合4勺宛 20日間
天保8年2月11日 9名 91軒318名 1人あたり 銭400文 独身者 銭500文
天保8年3月15日 15名 85軒318名 10日目ごと1人1升宛 60日間
安政6年12月16日 15名 97軒 1軒あたり米1斗 独身者5升
万延元年閏3月9日 15名 123軒   〃 米1斗5升 〃 5升
万延2年4月16日 16名 110軒   〃 米1斗   〃 5升
文久元年4月10日 16名 110軒   〃 米1斗   〃 5升
慶応元年6月1日 16名 107軒   〃 銭3貫文  〃 1貫500文
慶応2年3月 16名 107軒   〃 銭3貫文
慶応2年8月 17名 103軒   〃 〃
慶応3年2月 17名 100軒   〃 〃
慶応4年3月 17名 100軒   〃 〃
慶応4年6月 18名 80軒   〃 〃
天保5年6月 越ヶ谷本町組施行者
米12俵1斗 塩屋吉兵衛
〃5俵 富田屋伊左衛門
〃3俵1斗5升 穀屋彦右衛門
〃2俵2斗 三鷹屋嘉兵衛
〃2俵2升 亀屋甚内
〃2俵2斗 ぬしや次右衛門
〃2俵1斗 奈良屋林兵衛
〃1俵2斗 角屋太兵衛
〃1俵2斗 谷中屋重次郎
〃1俵1斗 堺屋吉右衛門
〃1俵1斗 三川屋栄蔵
〃1俵 紙屋善蔵
〃1俵 遠藤重左衛門
〃  3斗5升 新屋与兵衛
〃  1斗5斗 笠屋後家えん
〃  5升 かめ屋伝左衛門
〃  5升 森田屋藤兵衛
慶応4年3月 越ヶ谷本町組施行者
金3両2分 三鷹屋嘉兵衛
〃3両2分 森田藤兵衛
〃2両3朱永12文5分 穀屋彦右衛門
〃2両3分 奈良屋新八
〃2両2分3朱永12文5分 富田屋伊左衛門
〃2両2分 塩屋十馬之輔
〃2両 丸子屋小左衛門
〃2両 亀屋甚内
〃1両2分 角弥右衛門
〃1両2分 堺屋吉右衛門
〃1両2分 遠藤重左衛門
〃1両2分 中村屋弁蔵
〃1両2分 桝屋善蔵
〃1両 正能屋太兵衛
〃1両 道具屋半助
〃1両 笠屋貞次郎
〃1両 はり屋次左衛門