地借・店借層の困窮人救済は、越ヶ谷町では重立百姓の自主的な割当供出によったが、大沢町では百姓一同の高割で醵出していたようである。これを安政六年(一八五九)の、大沢秦野家所蔵の「浅間山集会一件」でみると、つぎのごとくである。
安政六年七月は関東一帯の大出水で、当地域も大きな水害をうけた。このため米価が高騰し、地借・店借層が困窮したのは大沢町も例外ではなかった。これら大沢町の困窮人二六〇人ほどは、同年十月二十九日の深夜、大沢町浅間(せんげん)山に集合し、火を焚いて同所に立てこもった。一部の者は山を下りて大沢町の穀屋や酒屋を襲い、酒食を強要したり乱暴を働く者もいた。急報をうけた大沢町役人は自身番に参会しこの対策につき協議しているところへ、浅間山徒党人が押かけ、酒何程、米何程を施せと掛合いにきた。大沢叮役人はこの徒党一件を名主に届け指示を仰いだ。
名主は仲介人を立てて徒党方と折衝にあたらせ、まず一同を浅間山から解散させることが先決であると主張した。大沢町役人はこれにもとずき、大沢町地主百姓一同を大沢町照光院に召集し、仲介人を選定した。選ばれた仲介人は早速浅間山におもむき徒党の代表者と交渉に入った。
徒党人方では、穀物が高値のため生活できないので、来年三月まで銭一〇〇文につき白米一升のわりで売ってほしい、ついてはこの米を買うための資金として一人あたり金一両の借用をみとめてほしいと要求した。徒党人側のこの要求の報告をうけた大沢町地主方では、天明八年(一七八八)の凶作年のとき、四〇日の間米一合安のつもりで困窮人一人につき銭五〇〇文宛を施金した例がある。今回は水害で百姓方一同も難儀しているので、三〇日の間、米一合安のつもりで施金したいと回答した。
徒党人一同はこの回答を不満とし、高持百姓の家を打こわし、名主宅に押入ると威嚇したうえ、六〇日の間米二合安で売渡すこと、米購入の資金として一人あたり金一両宛を貸与することの条件を固執した。仲介人は再度この旨を地主方に伝えたところ、六〇日の間白米一合安とし、金一両の貸与金のかわり、二ヵ月分の地代・店賃を免除したいと回答した。それでも徒党人一同はこの回答に同意を示さなかったので、仲介人はさらに双方の主張を調整したが、この結果六〇日の間、米二合三勺安、元手金として金一分を施金することで交渉が妥結した。
なお、当時白米の小売価格は、銭一〇〇文につき五合七勺相場であったので、この米の安売りは銭一〇〇文につき白米八合売りと定められた。したがって二合三勺は施米という形で地主方が負担することになったのである。大沢町役人はこの約定にもとずき、同年十一月一日、大沢町百姓一同の諒解を求め、二二〇軒の地借・店借困窮人に、一軒あたり金一分宛の施金を行なうため、金五五両を調達した。このうち上組は金一一両、中組と下組は金二二両の割当であった。当日この施金は、照光院の本堂で行なわれ、各組毎にひかえた帳面と、あらかじめ渡しておいた切手札とを照合しながら手渡されたが、施金がすべて終ったのは夜明け方であったという。
ついで同年十一月八日、同月十日から翌年正月九日までの六〇日間の白米安売用切手札が各人に渡された。これら困窮人の施金と安売米の購入資金は、大沢町百姓一同が反別割合によって出金することになったが、とりあえず越ヶ谷町奈良屋新八方の日掛預金一〇〇両をおろして充用した。その後、困窮人救済資金の反別徴収については、各町内で容易に調整がつかなかったが、ことに越ヶ谷・花田・増林・四町野各村の大沢町越石百姓から、反別出金の諒解をとるのに日数がかかったという。なかでも花田村・増林村は大きな水害をうけていたので、両村の越石百姓は反別割合の勘弁を願っていた。
またこの一件につき大沢町名主が代官所に呼ばれ、金一分の施金の理由を問われ、窮人連判帳の提出を求められたが、科人はでなかったようである。しかし慶応四年(一八六八)七月、大沢町困窮人二〇〇人が大沢町弘福院に集合し、大沢町地主方へ強硬に施米の実施を迫った一件では、大沢町のそばや音次郎、足袋屋又四郎の両名が徒党の頭取とみられ、維新政府から逮捕されている。
なお大沢町鈴木家文書によると、大沢町では慶応元年六月にも困窮人一軒あたり銭三貫文、慶応二年六月にも一軒あたり銭四貫文の施金を行なっているが、このときの地主方の施金負担はつまびらかでない。