農民の衣服

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江戸時代初期の農民衣服は、男女とも麻の布子をまとい、腹帯をなし、髪を藁でたばねていたといわれる。だが寛永年間(一六二四~四四)になると、幕府は百姓の衣類は、布や木綿でなければならない。ただし名主や女房は紬を用いてもよいと法令を出しているので、すでにこの頃は木綿や絹が農村に入りこんでいたとみられる。さらに百姓の衣類は紅梅に染めてはならないなどと、衣類の染色や加工にも制限が加えられたが、これらの法令は慶安二年(一六四九)の〝慶安御触書〟にもうけつがれ、以後も反復強調された。したがって江戸時代を通じ農民の衣服は木綿が多く、しかも地味な色彩のものが用いられたが、ことに仕事着の色彩は男女とも黒か紺にかぎられていた。

 では江戸時代農民が用いた衣類はどのようなものであったろうか。増林村榎本家文書安政三年(一八五六)の「訴書留」によって、高二石余所持の百姓源右衛門が、火附盗賊改役に提出した衣類の盗難届をみると、木綿藍みじん縞男綿入二つ、木綿紺鼠三筋縞女綿入一つ、機留縞女袷一つ、太織縞女綿入半天一つ、木綿紺鼠竪縞袷半天一つ、木綿紺浅黄横竪縞袷半天一つ、木綿紺浅黄竪縞単物一つの八品である。このほかの盗品届にもおよそ木綿縞物の地味な衣類が多いので、おそらくこれらの衣類が当時の農民の標準的な衣服であったろう。なかには柳絞り縮緬袖足繻絆などの絹物もみられるし、砂原村名主松沢家文化十四年(一八一七)の質入品によると、茶紬女単物や、太織羽織・縞羽織などがみられるが、これらは一般的な農民の衣類ではなかったであろう。しかし越ヶ谷宿などの町方では、たとえば越ヶ谷町内藤家の「記録」によると、内藤家の当主嘉兵衛の母が死亡したときの形見わけには、縮緬女単物・花色緞子女帯・花色琥珀女帯・御納戸紬紋付女小袖など、当時は派手な衣類とみられる品があるので、町方と在方の衣類は多少異なっていたものとみられる。