寛永二十年(一六四三)の幕府の法令には、百姓の食物は雑穀を用いるべし、米は猥りに食べざることとあるように、米の常食を禁じていたが、当地域は水田稲作地帯であった関係から、時代が下ると米を一般的に主食としていたようである。たとえば砂原村松沢家文書天保六年(一八三五)の「当未秋収納方覚帳」によると、九月から十二月までに自家飯米分一〇俵の籾を白米に搗いている。また大沢町荒井家文書天保三年の道中奉行申渡し請書のなかに、助郷伝馬にでた農民はいずれも白米の弁当を持参しているので、これを慎むようにとある。さらに大沢町秦野家文書によると、安政六年(一八五九)の地借・店借困窮人の施米は、いずれも白米が用いられているので、当時白米の常食は珍しいことではなかったとみられる。
また副食品の内容もはじめは自給作物をとり入れた簡素なものであった。たとえば貞享五年(一六八八)の越巻村丸の内産社の「入目覚」によると、当日の献立は、牛蒡・大根・とうふ・こぶ・鰹節・それにさかなとある。だが同じく万延二年(一八六一)の丸の内産社の「入目覚」には、白米・砂糖・醤油・むきみ・するめ・茶・煙草・梨子・椎茸・しらたき・ゆり玉・八つ頭・油揚・九年母・くわい・長芋・せり等多様な食品が献立に用いられている。
また小林村文政五年(一八二二)の「祭礼式法」(越谷市史(四)九一〇頁)によると、当村の産社祭礼には甘酒やかん酒が振舞われ、本膳としてのりかけ飯に大根と豆腐の汁、坪には牛蒡のごまあえ、取会に大根と人参の煮しめ、平盛にはくわい・椎茸・せり・ふ・揚豆腐、猪口が金平牛蒡、えび・大根・にんじんの生酢、取肴は金平牛蒡と人参・牛蒡の酢漬、むきみぬた、えびいり、それに鯉や香の物などと多様な料理献立である。これらは祭礼などの特殊なご馳走であったが、日常でも食生活の向上は、当時の家計簿的な「小使帳」などによって窺い知ることができる。これは上層農民の場合であるが、たとえば砂原村松沢家文書享和三年(一八〇三)の「金銀出入日記帳」によると、油揚・菓子・干物・豆腐・酒・醤油・たばこ・砂糖・まぐろ・わかめ・鰹節・干うどん・水飴・白味噌・せんべい・さんま・どじょう等を日常的に購入している。
このほか当時は、折にふれては赤飯を炊き餅を搗いてもの日を祝っていたようである。袋山村細沼家文書天保十三年(一八四二)の「記録帳」によると、細沼家では、毎年冬至の日に赤飯を炊く例であり、十二月二十五日に糯米(もち)一石二斗で正月用の餅を搗いた。同月二十七日には越ヶ谷市で正月用品のかや三合、かちぐり三合、田作り一升、数の子二升、たら一本、ならびに橙々・ゆづり葉などを購入した。
正月三日間は、芋・若葉・蛤・人参を入れた雑煮を祝い、一月七日の七草には芋・人参・なず菜・若葉・せりの五品で七草粥を炊いた。また同月十五日には赤粥をつくり、翌十六日にも朝の内に井戸替えを終えて赤飯を炊いた。同十七日は稗飯の炊きはじめとあるので、稗も食料に用いられていたようである。ついで同月二十日は夷(えびす)講であり、御馳走がつくられた。二月一日は赤飯を炊き、彼岸の入りと末日には団子、中日が牡丹餅である。二月十五日は草餅、三月節句にも草餅を搗いた。同十五日は〝梅若〟(梅若忌)の日で、また餅を搗いた。細沼家の「記録帳」には、その後のもの日の食用が記されてないので確かなことは不明であるが、一年を通じ、餅や赤飯などを食する日が、予想外に多かったことがうかがえる。