農民の住居

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幕府は寛永二十年(一六四三)、名主や惣百姓とも、身分不相応な家を建てるべからず、との法令をだして、農民の建築様式を規制したが、これは士・農・工・商の階級秩序の維持を目途にした住宅政策であったといわれる。こうした幕府法令にもとずき、村々においても村内の身分格式により、家屋の建築様式に幾多の規制を設けていた。

 たとえば西方村須賀家文書によると、西方村の農民が庇をつけた家を建てたところ、村役人から寛永六年の検地で御縄を請けた百姓のほかは、門や塀、ならびに庇などの普請は許されないとこれを咎められ、取つけた家の庇を取除かせられた。西方村では検地名請の百姓かどうかが身分格式の一つの基準であったようである。このほか経済力に関係なく、村役人と小前百姓の身分差、あるいは本家分家の関係により、梁間・床・畳・天井・式台・玄関・付書院などの建築様式にそれぞれ慣例が設けられていたようである。

 また同じ村内にあっても、住居の部屋数や床の敷物などに大きな差異があった。文政七年(一八二四)の埼玉郡蓮田村「家別双紙図面書上帳」によると、寺院は別格として、総戸数七六軒のうち土間や板間を除き、一部屋である家が一一軒、六部屋を備えた家が三軒と部屋数の差が大きい(第32表)。だが三部屋・四部屋の家が四五軒(六〇%)となっているので、この程度が農家の標準的な部屋数であったとみられる。またこの部屋に敷かれた敷物をみると、莚や薄縁を用いている家が、総戸数の六七%強にあたる五一軒も数えられる。一方畳を用いている家は、寺院や名主宅を含め、上層農民とみられる八軒にすぎない。そのほか一部が畳敷であとは莚を用いている家が一六軒であり、当時畳を使用する農家は、まだきわめて限られた家にすぎなかった。このなかで共通しているのは、いずれの家も農家の作業場である土間が広く設けられており、母屋の外に井戸と雪隠がほとんどの家に備えられている。このほか薪小屋や物置が母屋と別に屋敷構内に独立して建てられている家が多い。また母屋のなかには、ほとんどの家が土間との境にイロリを設けているが、イロリは家庭生活の中心であり、食事をとるのも、体を温めるのも、夜なべの手仕事をするのもイロリのまわりであったので、イロリは農家建築の構造上重要な位置を占めていた。また廐を備えた家は五〇軒を数えるが、実際に馬を飼っていたかは不明である。厩の多くは、土間に続き鍵形に折れた曲り屋形式になっているが、その先に風呂場を備えた家が二一軒みられる。この蓮田村は武蔵東部の低湿地域に位置し、越谷地域とほぼ同じ条件にあったうえ、距離的にも近いので、おそらく越谷地域の農家も蓮田村と同じ状態であったとみてよいであろう。

文政7年蓮田村屋敷絵図
第32表 文政7年武州埼玉郡蓮田村住居 居間数・敷物
居間数 軒数 敷物 軒数
1居間 11軒 44軒
2 〃 9〃 薄縁 2〃
3 〃 30〃 薄縁・莚 6〃
4 〃 15〃 畳・莚 16〃
5 〃 8〃 8〃
6 〃 3〃

 現在越谷地域の古い家は、いずれも建替えられて少なくなったが、増林村の榎本家、東方村の中村家、長嶋村の内山家、蒲生村の中野家、平方村の白鳥家、麦塚村の中村家、見田方村の宇田家などが、江戸時代の民家のおもかげをとどめて残されている。