東方村の名主を勤めていた中村家(重義)は、「中村家系譜」によると、安永元年(一七七二)の建築になるものであり、建築年代の確認できるものでは越谷地域で最古のものである。一般に、住宅は建築当初のまま継承されることはすくなく、必要に応じて改造あるいは増築されるが、当時のおもかげを留めていることにかわりはない。
前頁に掲げた平面図は中村家のものである。その間取をみると、およそ中心部から東西に二分できる。その西側は名主役としての機能を備えた構えになっている。まず幅二間の式台付の玄関が設けられ、玄関を上ると一段高い六畳敷の玄関の間がある。その奥に四枚の帯戸で仕切られた一五畳敷の広間、その西側に四畳敷の〝入側〟と、八畳敷の奥の間がある。ここには書院造りに似た床の間があり広縁ごしに庭園をのぞめるようになっている。いわば藩の役人などを通す客間といえよう、そして広縁の突当りが便所である、元治元年(一八六四)の古図には便所とともに客用の浴室が画かれているので、当時は客用の浴室があったようであるがいまはない。
また中村家間取中央の東側は、中村家の生活機能を備えた構えとなっている。すなわち表玄関と広間の仕切りにつづき、奥行一間の庇が東側の大戸にかけて張られている。この庇のうち西側のはずれに幅一間半程の玄関に似た出入口が設けられているが、おそらくここは、村用などの来訪者や、祝儀・不祝儀のとき通用した出入口であったろう。ここを上ると、大黒柱のある〝たまりの間〟であり、その奥に茶の間と納戸が続いている。茶の間と納戸の西側は板敷の濡縁になっており、濡縁つづきに曲り屋ふうに二棟の離れ屋があって、母屋との間にコの字型の内庭をつくっている。しかしこの離れ屋はこの家が見田方遺跡公園に移されたとき省略されて取払われている。ついで玄関風の出入口から溜りの間につづき、大戸が設けられているが、この大戸は日常家の者が出入する戸口である、中に入ると作業の場である広い土間となっている。土間の奥にかまどと炊事用の流し台、それに板の間がある。この土間から東側につけられている物置は、古図によると湯殿であった場所である。この物置につづいて勝手口がありさらに浴室が設けられているが、この浴室は後につけられたものであるという。
現在の間取にはイロリの設置場所がみえないが、〝たまりの間〟と〝茶の間〟の天井に煙出しがつけられているので、かつてはたまりの間と茶の間は仕切りのない板敷の間であり、ここにイロリが設けられていたとみられる。このほか家人の話では、以前土間の板の間にイロリを設けていたときもあったという。屋根は萱葺の寄せ棟となっており、玄関の屋根は入母屋造りである。ぐし(棟)は直屋や曲り屋の多い当地域では、めずらしく複雑な構造となっているが、ぐしのおさえには竹が使われている。当家は越谷市の文化財に指定されたが、中村氏から当市に寄贈されたので、現在見田方遺跡公園に移されその保存がはかられている。
また江戸時代の村役人層の家では、門や玄関、あるいは式台などを備えた家が多いが、このうち長屋門を構えている家には、現在長嶋の内山家、蒲生の清村家、越巻の名倉家、見田方の宇田家などを数えることができる。なかでも見田方の宇田家長屋門は、忍藩柿ノ木領八ヵ村の割役名主宅に相応した堂々たる構えであり、市の指定文化財としてその保存に力が入れらている。なお、江戸時代の農家の屋根は、ほとんどが萱葺や藁葺などの草葺屋根であり、萱講などの組合を結び、順番で屋根の葺替えを行なっていた。