念仏講

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越谷地域のなかには、念仏講や観音講が今でも昔ながらに伝承されているところがあるが、江戸時代には一村を挙げて盛大に行なわれていたようである。ことに念仏講は村びとの生活に溶けこんで永い間伝わってきた行事であっただけに、時代とともに講の組織やその仕来りに幾多の変遷がみられる。

増森の念仏

 たとえば西方村「旧記四」によると、西方村字山谷の念仏講中は、享保(一七一六~三六)の頃までは、家数二一軒であったので二一軒の婦人たちにより、月例廻り宿で念仏を執行してきたという。また葬式や忌日の供養にもこれら二一軒の婦人たちで念仏が行なわれたが、山谷の戸数が追々増加し、文化年間(一八〇四~一八)には四三軒を数えたので、念仏講中の人数も倍加した。しかもこの頃には月例の念仏執行には、赤飯や御馳走をだすのが慣例となり、相互に無益な費用がかかるようになった。そのうえ葬式や忌日の念仏執行には、四三軒の講中一同が参会したので、施主方もこの賄いに困った。このため山谷念仏講中では、文化十四年山谷のうちを山谷組と流組の二組に分離し、念仏行事は手軽に行なうよう申合せていた。

 また西方村須賀家文書によると、西方村大聖寺門前百姓一同で組織していた念仏講中は、後に門前百姓のほかに御料所(幕府領)百姓が参加し、年毎に行事の盛大を誇ってきたが、嘉永五年(一八五二)七月、門前組と御料組を組分けする申合せ議定が示された。理由は近頃念仏講中の風儀が乱れ、派手を競って行事を行なうので費用が嵩むようになった。ことに例年六月二十四日に行なわれる大聖寺境内の鎮守祭礼には、若者ども一同踊子を雇ったり揃いの衣類を新調したり、あるいは手挑灯を揃えたりするのでこの費用の負担が重い。このため念仏講をはじめ諸行事一切門前百姓と御料百姓を組分けすればすべての行事が手軽く行なえるという趣旨であった。念仏行事も年代が下るにつれ派手となり、盛大を競う風潮が一般的であったことが知れる。

 なお当時の葬式は念仏講中が中心となって執行されたが、西方村では文政五年(一八二二)から六道(棺桶荷い)も勤めるようになった。それまでは葬送のとき施主方で棺桶を墓所に運ぶ慣例であったが、施主方で人数が揃わないときもあり、ことに悲嘆にくれる遺族が、棺桶をになう力がないのを見兼ね、念仏講中一統が相互に四人宛の六道廻り番を申合せたという。