雨乞と虫送り

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当地域は水田稲作地域であったので田植頃から田草取りの期間に雨が少ないと不作になるおそれがあり、神仏に祈願して雨乞をすることが多かった。

 西方村「旧記三」によると、寛政六年(一七九四)という年は六月から日照りが続き、瓦曾根溜井の水が干上がる程の旱魃であった。このため稲田は地割れが生じ、稲は枯死寸前にあっ。た西方村をはじめ近辺村々では一同申合せ、大相模不動尊で六月二十六日から七日間にわたる雨乞祈祷をすることになった。人びとは不動尊僧侶による雨乞祈祷がはじまるとともに、鉦や太鼓で念仏を唱和し、あるいは挑灯をかかげて不動尊境内に日参した。この雨乞祈願中、八条領村々はもとより、草加や越ヶ谷地域の村々も途中からこれに加わったので、不動尊境内は毎日多数の参詣人でうずまった。しかもこれら参集人はいずれも鉢巻と下帯に晒木綿を用いたので、晒木綿はどこの店でもまたたく間に品切れになったという。このときは、満願日の七日目昼頃から雷をともなった大雨が降り、人びとを歓喜させた。その後の天気も順調な経過をたどり、枯死寸前の稲作は持直したとある。この間村々からの奉納金が不動尊におびただしく届けられたが、不動尊でも雨乞祈願の諸費用が、およそ金二〇両かかったという。

大相模不動(新編武蔵風土記稿)

 ついで文政四年(一八二一)にも当地域は旱魃に見舞われ、村々では用水をめぐって水論が絶えなかった。西方村は寛政六年の前例にならい、五月の下旬西方村一村で大相模の不動尊に七日間の雨乞祈祷を依頼した。このときの雨乞祈祷の支度料は金五両であり、祈祷の中日には見舞として金一〇両とそうめん一箱を奉納した。西方村ではこれら雨乞費用を各人の経済力に応じ、銭五〇文、銭一〇〇文、金二朱、金一分の四段階に分けて徴収したが、この不足分をなお高割合で調達したという。ところがこのときは七日間の雨乞祈祷中にはついに雨が降らず、後日になって大雨があったので、村びとは心残りであったと嘆いた。

 また西新井村新井(省)家文書によると、谷中村や三野宮などの岩槻藩領村々では、雨乞祈願には割役役人からの日割通達にしたがい、岩槻の久伊豆社に交替で参詣する慣例であった。岩槻藩領村々では日割りにしたがって久伊豆社に参集し、雨乞成就の御札を頂戴した。現在この雨乞祈願の名残りは当地域ではみることができない。

 このほか当地域では、稲につく虫を防除するため、例年虫送り行事が広く行なわれていたが、現在では新方地区でわずかにこの行事が残されているにすぎない。新方地区では新暦の六月二十四日の夜部落それぞれの鎮守に集合し、麦藁などをたばねた大きなたいまつに火をつけ、鉦と大鼓をたたきかけ声をかけながら農道を行進する。やがて野末にいたると燃え残りのたいまつを一か所に積んで手打ちをおこない解散する。この行事が執行されるようになったのは比較的古いことである。

新方地区の虫追い(昭和46年)

 西方村「旧記参」によると、寛政三年(一七九一)この年の夏は天候不順でことのほか稲に虫がついた。このため西方村では麦藁のたいまつをつくり、鎮守燈明の火をうつして虫送りを行なった。ところがその後だんだん虫がいなくなったので、翌年から一年に一度虫送りの行事を定例的に執行するようになったという。したがって当地域の虫送り行事はおそらくこの頃からはじまったものとみられる。