村の娯楽

975~977 / 1301ページ

江戸時代における村の娯楽には、念仏講・観音講・庚申講などの信仰集団、あるいは嫁講・若者講などの年令集団など、講の寄合が娯楽と重なって大きな比重を示していたが、このほか寺社の祭礼などに催される角力・芝居・手踊・花火などが数えられる。ことに「大沢猫の爪」によると、安永四年(一七七五)三月、大房村松原山で、ついで同九年春、大林村松原山で操人形芝居の大興行があったと記されているので、操人形芝居も盛んであったようである。また袋山村では、名主が勧進元になって村内でしばしば勧進角力を興行していたが、正徳四年(一七一四)の正月、村内小前百姓から村方困窮の基いとなるのでこれを中止するよう支配所に訴えられている。同じく芝居興行でも、宝暦六年(一七五六)七左衛門村名主が、小前百姓の反対にもかかわらず、村内で芝居興行を強行しているとして、村方難儀の理由で支配所に訴えられている。

 幕府は村内の人寄せ興行を、風俗匡正の見地から原則的に禁止していたが、実際には、こうした興行が盛んに行なわれていたのが実情であろう。上掲の図は砂原村において講談興行が行なわれた際、配布された木版刷の広告で、大変めづらしいものである。年代は不詳ながら、この広告に桜花と幔幕が画かれているので春の興行であったろう。演(だ)しものは前座が、「和漢諸軍談」と題する講談であり講師は南田不慮見である。「後座は浮世ばなし国物語り」と題し野田楽々斎が講師である。世話人は砂原村の上組と前原組の若者中であり、興行主は同村の定右衛門である。文化年間砂原村の名主に定右衛門の名がみえるので、おそらく定右衛門は当時の名主であったろう。一村を挙げて大々的に興行していたことが知れる。

砂原村講談会広告(破損部分はカッコで補なった)

 これら興行は、いずれも江戸の芸人かもしくは旅廻りの一座を招いて興行されたとみられるが、地方によっては村内の人びと、ことに若者が中心となって地芝居を定着させ、このなかからすぐれた芸人がでることもあった。たとえば野州都賀郡下南摩村をはじめ周辺の村々では、若者仲間の地芝居が隆盛をきわめ、このうち下南摩村の清次郎は〝田舎団十郎〟と称されるほどの名優であったという。文政十年(一八二七)幕府は文政改革の一環として地芝居の取締りにもあたり、若者組をはじめ地芝居の禁止を通達した。しかし若者達は村内に定着した伝統的な娯楽芸能を廃絶させることを拒み、かくれ芝居を続けてしばしば処罰者をだした。とくに地芝居取締りに抵抗して起った安政五年(一八五八)の「野尻騒動」とよばれる騒動では、野尻村名主石川多市の死罪をはじめ、一二九人が処罰をうけるという事件をおこしている(腰山巌『野尻騒動記』)。

 当地域では、江戸に近かった関係からか、江戸の芸人一座を招いて興行することが多かったので、伝統的な地芝居は育たなかったようである。ことに文政改革による人寄せ興行の禁止政策で、村内の娯楽は大きく制約されたが、それでも自主的な村の娯楽行事は数多く維持されて続けられた。たとえば今でも神社の境内などには、一つや二つの卵形をした力石がかならず残されており、折にふれては村びとが集まって力くらべの技を競っていたことが知れる。また村角力も一般的な娯楽行事であり、今でもこの風習が伝承されて神社の祭礼などには子供角力が催されているところが多い。幕末の力持三野宮卯之助などが育ったのも、こうした基盤があったからであろう。なかでも村角力は古くからの村の行事であったとみられ、天正から元和年間にかけての傑僧呑龍上人の伝記書「然誉大阿呑龍上人伝」によると、呑龍の生地一割村(現春日部市一之割)の龍神森は、松杉が欝蒼と茂った霊地であり、この場所は郷里の諸人が納涼角力をする会所である、といっている。

 このほか個人娯楽としては、上層農民のなかに、囲碁などをたしなむ者もいたとみられ、蒲生村の名主中野弥三郎は文政十二年(一八二九)本因坊大和から初段の免許状をうけていた。