三野宮卯之助

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越ヶ谷久伊豆神社拝殿の右側境内に、〆繩で囲まれて台座にのった力石がある。これには「奉納 天保二辛卯年四月七日 三ノ宮卯之助持之 五十貫目 本町会田権四郎」と刻まれている。すなわち三野宮卯之助という人が天保二年(一八三一)にこの五〇貫(一八七・五kg)の石を持ちあげたもので、越ヶ谷本町の会田権四郎が記念にこれを久伊豆社に奉納したものである。このほか三野宮香取神社境内に二箇の大きな力石が残っている。その一つは平石で「奉納 大磐石 嘉永元歳 三之宮卯之助持之」と刻まれており、一つは卵形で「奉納 白龍石 三之宮卯之助持之 嘉永二年」と刻まれている。

越ケ谷久伊豆神社境内の力石

 それではこのような石を持ち上げる怪力の持主三野宮卯之助とはどのような人であったのであろう。その出身地は三野宮村であるのが確認されるが、卯之助に関する文書記録は、卯之助の子孫で五代目にあたる三野宮三三五番地の向佐昭一氏宅にも見あたらない。向佐氏ならびに部落に伝えられる話を総合すると、およそつぎのごとくである。

 卯之助は生来小柄な身でしかも虚弱体質であったという。このため部落の力くらべではいつも最下位となり、人びとから馬鹿にされていた。卯之助はこれに奮起し人目を忍んでは猛訓練に励んだが、そのうち力がつき部落内は勿論近在でもだんだん頭角をあらわしていき、ついには江戸方を代表する力持に成長した。そして卯之助は力持の仲間と一座を結成し、力持見世物興行を始めた。

 次頁の江戸力持三野宮卯之助と題した木版刷は、興行のときの宣伝広告であり、各種の演技が刻明に描かれている。とくにこれらの演技中、版画に示されている中央の人馬舟持上げの演技は評判であった。この演(だ)しものの思い付きは、かつて米俵を積んで江戸へ回送する舟が、元荒川の浅瀬に乗り上げた。このとき卯之助はこの立往生した舟の下に潜り、両脚で舟を持上げてこれを移動させたのにヒントを得たという。卯之助の興行先は、関東から甲信越地域にもわたり、江戸深川八幡、鎌倉鶴岡八幡をはじめ、遠くは信州諏訪神社などにも卯之助の名が刻まれた力石が残されている。

三野宮卯之助興行広告

 こうして諸国を巡業していた卯之助が最期の地は不明であり、越谷にはその墓はない。子孫の話では、江戸において、上方の力持一番の者と、江戸力持一番の卯之助が日本一の力持を競い卯之助が優勝したという。その晩興行主の酒宴に招かれたが、その帰途の路上で急死した。競争相手の毒殺説もあるというが、その真疑のほどは不明である。

 なお卯之助の位牌は越谷市弥生町の荻野家に置かれてあったが、近年向佐家に戻された。位牌の表には「到殺清〓(信)士 嘉永七寅年七月八日 不二位」裏には「日本市大力持 三ノ宮卯之助 四十八才」と書かれている。したがって卯之助の生年は文化三年(一八〇六)であり、久伊豆神社にある五〇貫の力石は卯之助二五才、三野宮香取神社の二箇の力石はそれぞれ卯之助四二才、四三才のときのものである。