戸数の推移

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江戸時代の日本の人口は全国的にみると元禄年間を境に明治の初期まで停滞現象が続いたといわれる。当地域については人口の動態を示す史料がきわめて不備なため、これを明らかにすることはできないが、戸数の推移では文政六年(一八二三)に調査された『新編武蔵風土記稿』、天保年間(一八三〇~四四)に調査された「武蔵国御改革組合限石高家数村名録」、それに明治八年(一八七五)の調査による『武蔵国郡村誌』によってわずかにこれを知ることができる。これらの史料から戸数を抄録したものが第33表である。

第33表 越谷地域村々戸口の推移
地区 旧字 文政 天保 明治8年
桜井 平方 185 186 204
大泊 50 42 60
大里 50 45 48
上間久里 50 55 54
下間久里 50 60 55
新方 北川崎 約50 50 53
大吉 約30 31 32
向畑 約60 59 62
大松 18 19 23
大杉 31 33 33
弥十郎 20 31 34
船渡 108 92 112
大袋 恩間 90 80 58
恩間新田 30
大竹 56 45 58
大道 87 85 78
三野宮 64 60 71
袋山 70 71 86
大林 31 32 35
大房 50 55 63
増林 増林 240 261 274
増森 130 136 156
中島 30 33 42
東小林 107 110 115
花田 48 47 52
荻島 砂原 64 60 67
小曾川 62 40 49
野島 19 18 26
南荻島 131 128 138
北後谷 31 35 38
長島 14 13 18
西新井 74 80 87
出羽 四丁野 66 64 76
谷中 48 49 50
越巻 36 40 45
大間野 54 59 69
七左衛門 114 103 134
神明下 59 54 68
蒲生 登戸 46 43 45
瓦曾根 105 96 135
蒲生 217 217 260
大相模 見田方 59 56 57
千疋 55 58 60
別府 9 11 12
四条 32 28 35
南百 29 29 33
西方 160 179 188
東方 85 105 120
川柳 上谷
麦塚 71 78 72
伊原 75 73 82
大沢 大沢 481 466 450
越ヶ谷 越ヶ谷 549 538 595

 これによると、それぞれの村によって増減がみられ、とくに天保期には戸数の減った村が多くみられるが、全体的にみると漸増傾向にあったことが知れる。このうち明治八年の戸数が文政六年時より減少している村は、大里・恩間・小曾川・登戸・見田方の各村と、大沢町があげられる。ことに大沢町の戸数の減少が目立っているが、これは伝馬制の廃止によって旅籠屋などの往還向きの需要が少なくなったためであり、大沢町荒井家文書によると、大沢町住民のうち東京・横浜などへ出稼ぎにでて、そのまま転居したものが多かったという。だが同じ宿場町であっても越ヶ谷町は、もともと近郷村々を商圏とした商業の中心地であった関係上、伝馬制の廃止には大きな影響もなく、戸数も漸増傾向にあったものとみられる。

 また文政期から明治期にかけて、とくに戸数の増大した村をあげると、東方村が八五戸から一二〇戸に、蒲生村が二一七戸から二六〇戸に、七左衛門村が一一四戸から一三四戸に、弥十郎村が二〇戸から三四戸に、袋山村が七〇戸から八六戸に、増森村が一三〇戸から一五六戸に、中島村が三〇戸から四二戸にそれぞれ増加している。