江戸時代の農家の家族構成は、およそ五、六人からせいぜい一〇人程度の小家族が普通であった。中世末の農家の経営形態は、血縁家族や下人の小家族を含め、名主(みょうしゅ)を中心とした複合的な大経営であり、大家族が一般的であったといわれる。
近世に入り、豊臣氏や徳川氏による検地政策の浸透により、これら血縁家族や下人層が次第に名主(みょうしゅ)の家から離れて独立するとともに、土地の開発が進んで分家がさかんに創出された。このため農家の大家族形態は少なくなり、零細な耕地を単婚小家族の労働力で集約的に経営する形が、本百姓や水呑百姓を問わず一般的な現象となった。それでも近世中期頃までは、血縁家族が一つの家に同居していたり、譜代の下人と思われる者が代々主家の水呑であったりする例がみられる。
たとえば八条領四条村正徳四年(一七一四)の「宗旨御改帳」によって、四条村の家族構成をみてみよう(第34表参照)。血縁家族四名のほか奉公人一〇名を置いた名主久兵衛家(飯島)を除き、他は三、四人から七、八人の標準的な小家族の形態である。その内容は一軒の家に弟夫婦や甥夫婦が同居している家が三例みられる。しかも同居者ではないが、「当所代々久兵衛水呑」と記された五人の者がいるが、これらは名主久兵衛家譜代の下人ではなかったかと推定される。これが四条村慶応四年(一八六八)の「宗旨御改帳」によると、四条村の家族構成は、そのほとんどが親・子・孫の直系親族による構成で、傍系血縁者の同居人はみられない。しかも水呑が七名数えられるが、いずれも特定農民に付属した水呑ではない。
総家族数 | 内奉公人 | 同居人 | 軒数 |
---|---|---|---|
人 | 人 | 人 | 軒 |
14 | 10 | 1 | |
8 | 1 | ||
7 | 1 | 1 | |
7 | 2 | 1 | |
7 | 3 | 1 | |
6 | 1 | 1 | |
6 | 1 | 1 | |
6 | 2 | 1 | |
6 | 2 | ||
5 | 1 | ||
5 | 1 | 5 | |
4 | 1 | ||
4 | 1 | 5 | |
3 | 4 | ||
2 | 3 | ||
1 | 1 | ||
合計176人 | 14人 | 8人 | 30軒 |
百姓23軒 | 水呑8軒 | ||
男93人 | 女83人 |
家族数 | 軒数 |
---|---|
人 | 軒 |
9 | 2 |
8 | 1 |
7 | 4 |
6 | 8 |
5 | 8 |
4 | 5 |
3 | 1 |
1 | 1 |
合計153人 | 30軒 |
百姓22軒 | 水呑7軒 |
男86人 | 女74人 |
このほか四条村の特徴としては、正徳年間には、農家のなかで奉公人を使用していた家がみられたが、慶応年間にはいずれの農家も奉公人を置いていない。ことに奉公人を一〇人も使用していた名主久兵衛家が、時代が下るにつれ奉公人を置かなくなった。一般的に、時代が下ると、農業一筋の農家は一部の手作地を残して他は小作地としたり、あるいはそのつど日雇人を使用するなどして家には年季奉公人を置かない傾向がみられる。
つぎに四条村正徳四年と慶応四年の戸数とその人数を比較すると、正徳四年は無高層を含め、その戸数は三〇軒、人数は男九三人、女八三人の計一七六人、慶応四年は同じく無高層を含め戸数が三〇軒、人数が男八六人、女七四人の計一五三人である。すなわち四条村の戸数は一五〇年間にほとんど変化がなかったばかりが、その人数はむしろ減少している。
さらに砂原村の「宗旨人別改帳」によって、寛政二年(一七九〇)と天保五年(一八三四)における砂原村の家族構成をみると、砂原村も四条村と同じく、寛政~天保を通じ、四~七人が平均的な家族数となっており、戸数・人数もほとんど変化を示していないことが知れる(第35表参照)。これら戸数や人数の停滞現象は、江戸時代を通じ、元禄期以降(一六八八~)全国的な現象であったといわれるが、当地域では、開発地域の頭打ちと、産業構造の伸びなやみにより、村の収容人口が飽和状態を示したものとみられよう。これに加えるに他町村への転出者と、無宿者の増加が、さらに戸数人口の停滞をもたらしたものと考えられる。
寛政2年 | 天保5年 | ||
---|---|---|---|
家族数 | 軒数 | 家族数 | 軒数 |
人 | 軒 | 人 | 軒 |
11 | 1 | 12 | 1 |
9 | 1 | 10 | 2 |
8 | 3 | 9 | 3 |
7 | 6 | 8 | 2 |
6 | 9 | 7 | 6 |
5 | 4 | 6 | 7 |
4 | 9 | 5 | 4 |
3 | 2 | 4 | 2 |
2 | 2 | 3 | 4 |
1 | 4 | 2 | 4 |
1 | 6 |
また西方村明治四年(一八七一)の家族構成を階層別にみてみよう(第36表参照)。これによると、持高一〇〇石以上の層の家族数は、奉公人を含め一〇人以上であるが、このなかには醤油・味噌醸造などの農間渡世を手拡く行なっている者もあり、奉公人を使用しているのが特徴である。なかに高九二石余所持の大高持にかかわらず、夫婦二人という家族構成を示しているのがみられるが、これは手作地の多くを傍系親族に地守させている特異な例である。このほか高一〇石から五〇石位の層の平均は七人強であり、親・子・孫の標準的な家族構成といえよう。また高一石から五石位の零細層の平均数は約六人弱であり、無高層が少し下って四・五人の平均値を示している。
しかしこの平均値は、かならずしも階層による家族構成の比率を示したものでなく、平均値のなかにも大きな差がみられる。たとえば無高層のなかには、子供などを奉公に出して、一人で暮している者もいるが、一方一〇人の家族をかかえて生活している者もいる。つまり一般化した農間稼ぎが、石高所持によって異なる家族構成の比率を大きくくずしていたといえよう。
持高 | 家数 | 平均家族数 |
---|---|---|
石 | 軒 | 人 |
170 | 1 | 14.0 |
135 | 1 | 11.0 |
113 | 1 | 12.0 |
92 | 1 | 2.0 |
76 | 1 | 14.0 |
60石以下 | 2 | 8.5 |
50 〃 | 2 | 6.0 |
40 〃 | 7 | 5.7 |
30 〃 | 2 | 9.5 |
20 〃 | 12 | 7.6 |
10 〃 | 8 | 6.6 |
5 〃 | 13 | 5.4 |
3 〃 | 16 | 7.0 |
1 〃 | 35 | 5.2 |
無高 | 26 | 4.5 |