欠落人

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江戸時代、正式な手続きを経ないで他所へ出たまま帰らない者を〝欠落人〟と称し、一定の期間を過ぎると帳外(ちょうはずれ)(人別帳から除かれる)、つまり無宿者とされた。欠落の理由はいろいろあるが、不身持な若者が農業を嫌い無断で家を出る、いわゆる家出人の例が多かった。このときはこの家出人が他所で悪事を働いたりすると、家族の者や五人組の者までが連座してお咎めをうけるので、勘当帳外、あるいは久離帳外を支配役所に願いでるのが普通であった。

 たとえば天明五年(一七八五)六月、砂原村甚右衛門が忰甚蔵の久離帳外を支配米倉丹後守役所に願いでている。この願書には、「甚蔵は当年二八才になります。平生大酒を好み身持がよくないので、親類・五人組の者がいろいろ意見をしましたが、一向に改心せず我儘ばかりしていました。先月甚蔵は何を思ってか家出をしましたがいまだに行衛が知れません。このように身持の悪い者なので、この先どのような悪事を仕でかすかわかりません。先行き手の施しようもない者なので久離帳外の措置をお願いします。」との旨が記され、親甚右衛門をはじめ親類・五人組の署名がある。役所ではこのような申出に対し、村役人の諒解があれば帳外の手続きをとった。

 また、欠落人のなかには、借財の返済に困り逃げ出す者もしばしばみられた。ことに欠落人のなかに地借・店借の者が多かったのは、田畑を持たない身一つの自由さによったものであろう。そして一たん欠落すると、再び村に戻らないのが普通であるが、なかには欠落後長い年月を経て帰村した珍しい例もあった。

 七左衛門村の地借人安五郎の忰源太郎は、家族六人暮し、小作請作のかたわら紺屋形付の稼業で一家の生計を立てていた。この源太郎の妹たつは、弘化二年(一八四五)二月、心願の筋があり神仏詣に行くと家を出たまま帰らなかった。続いて源太郎も、つもった借金の返済に困り同年四月二十六日の夜、父安五郎一人を家に残したまま、妻と五才になる忰ならびに三才になる娘の三人をともなって家出した。当時源太郎は三四才であった。これを知った七左衛門村役人は、五人組の者達を動員し、心当りを所々尋ねたが、見出すことができなかったので、源太郎の家出を支配役所に届けた。支配役所では源太郎の三〇日期限つきの捜索を村方に申渡した。

 そこで七左衛門村では「欠落者尋(たづね)帳」を作成し、源太郎捜索の協力を近村に求めた。この尋帳には、家出人の名や年令が記され源太郎の人相書も添えられていた。それによると、「せい高く中肉の方、面体色薄黒き方、疱瘡跡少々これあり、其のほか常躰、家出のときの着類は、鼠竪縞(たてじま)木綿単物(ひとえもの)を着け、真田木綿の帯を締め」とあり、「右のものどもは当四月二十六日の夜、ふと家出したまま帰ってこない。心当りを精々尋ねたが行衛は一向知れないので、当御支配役所に申告したところ、三十日限りの尋ね方を申渡された。もしや貴村に右の者たちが立廻っていないか、はばかりながらこの者たちの有無をお記し下さるよう頼みます。」との趣旨文面で、父安五郎をはじめ親類・組合・村役人の連名が添えられている。

欠落者尋帳

 これに対し近郷の村々では、「右お尋ねの仁は当村には見当りません、今後見当り次第早速知らせます。」との文言で名主の印が捺され、次々と隣村に廻された。この尋帳は、鳩ケ谷町や越ヶ谷町をはじめ、近郷五九ヵ町村に廻されたが、この間二ヵ月を経過していた。七左衛門村では幾度か源太郎尋方の日延べを願って捜索にあたったが見つからなかったので、ついに源太郎をはじめ五人の帳外が申渡され、家出人五人は七左衛門村人別帳からはずされた。

 その後、源太郎の消息は絶えたままであったが、十三年の年月を経過した安政五年(一八五八)二月、消息をたっていた源太郎から、妻子ともども郷里七左衛門村に帰村したいという便りが親類宛に届いた。このとき源太郎は四七才、妻は四〇才であり、忰は一八才、娘は一六才に成長していた。村役人が源太郎家出の始末をただすと、当時源太郎は借金が嵩み返済手段もつき果てたことから一途に家出を決行し、所々日雇稼ぎで渡り歩いたが、近頃風の便りで父安五郎が病気で寝ていると聞き、父に孝養をつくしたいと思い帰村を願いでた、とのことであった。

 これによると、父の病気が帰村を願いでた直接の理由になっているが、当時無宿身分は世間から特別な眼で見られがちであり、成長した子供の将来のためにも人別帳の加入は大きな関心であったに違いない。いずれにせよ七左衛門村役人の取計らいにより、支配役所に帰住願いがだされ、源太郎親子が再び七左衛門村の人別に加えられたのは、それから間もなくのことであった。なお、弘化二年に同じく欠落した源太郎の妹たつのその後の消息は不明である。

 当時はこのように勘当帳外や欠落などによって人別からはずされる者が多かったが、これとは別に、人別送りの手続きをきちんとふんで、他町村へ出稼ぎに出る者も少なくなかった。