出稼人

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天明七年(一七八七)五月、米価をはじめ諸物価の高騰に困窮した江戸の庶民が、米屋その他を打毀すなどの騒動をおこした。この打毀しは前例のない大規模な騒動であり、〝天明の江戸打毀し〟といわれ著名である。

 このとき幕府によって逮捕された者のなかに、武州埼玉郡久喜本町出身で江戸四谷坂町店借の左官渡世喜三郎、下総国今泉村出身四谷愛染院門前店借足袋屋手間取与兵衛、武州二郷半領出身本所吉田町店借日雇稼初右衛門、武州多摩郡青梅村出身本所長岡町店借前栽商(せんざいあきな)い(野菜売)七兵衛、武州埼玉郡中島村出身本所長岡町店借七右衛門等、江戸近郊農村出身の出稼人とみられる人びとがいる。このうち七右衛門は新方領中島村(現越谷市)出身の出稼人であり、当地域から江戸へ出稼ぎに出ていた者が少なくなかったことを知らせてくれる。なお打毀し逮捕者の判決は、入牢中死亡した者九名を除き、ほとんどの者が重追放か中追放の処分で、死罪に処せられた者はいなかった。

 いずれにせよこれら出稼人は、おそらく出稼先で死亡するか、居所を転々と変えるかして村に戻ることは少なかったと考えられる。村では彼等を受入れる余地が少なかったからである。西方村須賀家文書には次の例がある。

 西方村地借人喜助の兄浜次郎は江戸へ出稼ぎに出たが、出稼先でひさという女と夫婦になり、江戸で世帯をもって暮していた。二人の間に卯之助という子供が生れ仲むつまじく月日を送っていたが、病がもとで死亡してしまった。ひさは幼児をかかえて働きにもでられず、生活に困ったため、卯之助を浜次郎の実家西方村の喜助方へ預けることにした。卯之助を預かった喜助方でも決して余裕ある生活ではなく、しかも卯之助は病身であったので、療養手当をつくしたが、卯之助の病状は悪化するばかりであった。このため生活に窮した喜助は安政七年(一八六〇)三月、六才になった実の娘まつを大沢町店借金蔵方へ養女に出した。ところがこのまつの送り状は偽造の送り状であったので、大沢町の名主から連絡をうけた西方村の名主は驚き、喜助を呼んでこれを責めた。すなわち喜助は、名主が幼女を他人へ養子にだすことを許さないことを予知し、ひそかに名主の署名捺印を偽造したのである。喜助の親類や五人組は、名主がこれを支配役所に訴えると喜助がお咎めにあい、喜助家が滅亡するので許してほしいと名主に詫書を入れ、ようやく許された。養女に出されようとしたまつの身柄はその後どうなったか明らかでないが、それから間もない同年七月、卯之助は死亡した。江戸にいた実母ひさがこのしらせをうけてかけつけたが、ひさは死んだ卯之助を江戸へ引取ることができなかったので、喜助や五人組、ならびに村役人の諒解を求め、西方村喜助方の墓所に卯之助を埋葬し、自らは江戸に戻った。出稼人が出稼先で一家をなし、立派に暮していける人は案外少なかったのが実情であろう。

西方日枝神社