五人組の相互関係

991~995 / 1301ページ

江戸時代、幕府は年貢納入ならびに治安維持上の連帯責任を課すため、五人組制度を設けた。この五人組相互の関係は、年貢納入の連帯や治安維持の相互監視のほか、質地証文の加印・詑書の加印・訴訟書の加印・遺言の加印・養子の承認など、かなり立入った相互関係がみられる。

 ことに五人組は、潰れ百姓・退転百姓の防止、あるいは主のいなくなった名跡地の保護などにも大きな役割を荷(にな)っていた。このうち相続人断絶のためその名跡が幾度か絶えそうになったのを、五人組中がいかに存続させていったか、西方村須賀家文書によって追跡してみよう。

 西方村の又右衛門は、高二石九斗九升、この反別上・中・下田・屋敷そのほか見取畑合せて三反六畝二四歩所持の百姓であった。又右衛門は家計の不如意から追々屋敷を含めた地所を残らず質地に入れたが、宝暦十一年(一七六一)に病死した。このため又右衛門家は地所を失って潰れ百姓になる運命にあったが、他家に嫁いでいた又右衛門の娘せんは、母妙栄がまだ健在であり、ことに先祖からの由緒ある地所屋敷を失うのを残念に思い、又右衛門家の質地を残らず請戻した。この請戻した田畑屋敷は、又右衛門の相続人がきまるまで、親類与左衛門方で差配することになった。又右衛門には源次郎という伜がいたが、不身持な忰であったので、与左衛門は家の取締りとして与左衛門方にいた七三郎夫婦を又右衛門家に入れて地守とした。七三郎の身分は不明であるが、おそらく与左衛門方の奉公人であったかも知れない。

 又右衛門家に入った七三郎は、又右衛門地の耕作にはげみ、年貢諸役を差支えなく勤めるかたわら、後家妙栄やその忰源次郎の面倒を実直につとめた。六年ほど経過したとき、妙栄と源次郎は前後して死亡したので、家には又右衛門の血縁者が絶えた。親類与左衛門は又右衛門家の相続人がいないのを見こし、この地所を与左衛門方で引取ることを五人組に申し入れた。組合では又右衛門の名跡は、相続人がきまるまでは組合預けに頼むという妙栄の遺言により、与左衛門方への地所譲り証文の捺印を拒んだ。このため与左衛門は又右衛門名跡を引取ることができず、この地は五人組の管理のもとに七三郎が地守を続けた。

 その後文化三年(一八〇六)、すでに年老いた七三郎は将来を案じ、又右衛門名跡の世話や自身の身の振方について組合中に相談を申し入れた。このため組合では、又右衛門家の親類一同と協議のうえ、実直に地守を続けてきた七三郎に、又右衛門家の所持地高二石九斗九升のうち屋敷を含めた三畝八歩、この高二斗三升の地を譲り、又右衛門家の分地にさせることにした。

 なお又右衛門家の残り地所は、相続人がきまるまで従来どおり組合管理にすることに一致した。ところが組合中の一人がなぜかこれに異議を唱え、七三郎への譲地証文の加印を拒んだので、村役人一同は当惑し、これを支配山田茂左衛門役所に訴えて善処方を願った。五人組の一人が譲地証文の加印を拒んだ理由は明らかでないが、この結果七三郎が譲りうけることになっていた三畝八歩の地は、又右衛門家の親類与左衛門の忰与三郎が譲りうけることになった。だが与三郎の譲られた家屋敷は、引続いて七三郎が地守を勤めた。やがて七三郎は老齢のため死亡し、その跡をその子の七三郎がうけつぎ、引続いて地守を勤めた。

 その後文政三年(一八二〇)三月、又右衛門家の名跡は組合・親類評議のうえ、二代目七三郎忰と又右衛門家の親類五左衛門の娘を夫婦養子にして又右衛門家の名跡を継がせることに一致した。当時両人はまだ幼少であったので、もし不縁のときは両人で六分、四分の割合で又右衛門名跡を分地することまでこのとき取きめられた。したがって今後は又右衛門地にかかる年貢諸役は両人方で勤めることになったが、両人の成長するまでの八年間は、五左衛門が地守を勤め七三郎とともに又右衛門地を世話することになった。そしてこのとき、与三郎が文化三年に譲られた又右衛門地の屋数を含む三畝八歩の地所が、改めて七三郎に譲られたので、七三郎は正式に又右衛門家の分家百姓になった。こうして又右衛門地は又右衛門地と七三郎地に分けられたのである。このうち七三郎地のその後の経過をいま少し追跡してみよう。

 高二斗三升の西方村百姓になった七三郎は、天保十年(一八三九)に死亡した。当時七三郎の忰は七三郎の郷里幸手領権現堂村に居住していたので、その名跡を継ぐ者がいなかった。これを心配した組合中や村役人が相談し、差当り本家又右衛門家の地守五左衛門の次男を、七三郎の孫娘との結婚を条件に七三郎の家に入れた。ところが当の娘は遠方へ嫁ぐのは迷惑であるとこれを拒んだ。このため五左衛門忰の七三郎地相続は組合中の反対にあい破談となり、この地は組合預りになった。

 その後安政二年(一八五五)、七三郎家とはどのような関係にあったか不明ながら、組合預りの七三郎地は、組合中や村役人の承認をうけ、西方村百姓長五郎の忰六左衛門が地守になって七三郎の家に入った。

 一方七三郎家の本家又右衛門家の地所は、文政三年にとりきめの相続人が破談になり、五左衛門がこの地の地守を続けてきたが、万延元年(一八六〇)六月、五左衛門は地守役をめぐる不正の嫌疑をうけ、千住宿に召喚されて関東取締出役の取調べをうけた。五左衛門はこのときの費用調達に困り、地守地の一つである又右衛門地を村役人や組合中に無断で同村七郎兵衛に売却ししようとした。この不法な処置が発覚し、又右衛門地は支配役所によって没収され、改めてこの地を組合預りに申渡された。

又右衛門地の変遷

このように江戸時代の五人組は、組合中における家の存亡に深く関与していたのである。

 当時本百姓を減らさないようにするのは幕府の政策でもあり、百姓が名跡を失うということは村にとっても大変なことであった。そして親類は勿論、五人組や村役人がこの名跡の存続に努めたのはすでにみてきた通りである。ここでもう一つの例を、登戸村関根家文書によってみてみよう。

 天保九年(一八三八)、登戸村百姓友七は、年々の借財が累積したためこれ以上家計を維持することが困難になった。親類や五人組が友七の家を立直らせるため種々工夫をこらして友七の家計を管理してみたが、大きな借財を負っていただけにその方法がつきはて、ついに質地に入っていた田畑・屋敷・家財残らず金主に配分することを村役人へ願いでた。村役人は、友七が全財産を借金のかわりに処分することは、百姓身分を失うことであり、一家退転を意味するものであるから、今一度考慮するよう諭した。そこで親類・五人組はなおまた評議を重ねた結果、友七所持の田畑を小作地に出し、五人組と親類でこれを管理のうえ、この作徳をもって諸借金を永年賦で償還するようにすれば、なんとか友七の名跡を絶やすことが防げるのではないかと一決した。友七名跡のその後の経過は不明であるが、ここでも五人組は家の存亡に深く介入していた。

登戸報土院