農家の奉公人

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他家に住込んで召し使われる人を奉公人と称したが、農家の奉公人は下男・下女と呼ばれた。下男・下女は主に所作奉公と称し主家の農作業に従事したが、なかには子守や家事の手伝いにも使われた。

 これら奉公人を、忍藩領四条村享保十八年(一七三三)の「諸奉公人改帳」(慶応大学蔵)によってみると、当時四条村の農家で使っていた奉公人は七名であり、いずれも男子で所作奉公人である。奉公人の出身地は、南百村や別府村であり四条村の隣接村々の農家の子弟である。奉公年季は二年季の者一名を除きいずれも一年季である。

 また同じく四条村寛保三年(一七四三)の「諸奉公人改帳」によると、当時は四条村の所作奉公人は九名であり、このほか主人をきめない日傭人七名の書上がある。奉公人の出身地は、享保十八年のときと同じく、四条村近辺の農家の子弟である。年季は三年季の者二名を除けばみな一年季である。このほか主家を定めない日傭人は、いわゆる水呑と称される小作人層の者であり、おそらく小作地耕作のかたわら日傭稼ぎをしたものであろう。

 奉公人はその多くが身代金と称される前借金を受取って一定の年季を定め、主家に住込んで主家のために働いた。一例を示すと、谷中村の幸助が、文化六年(一八〇九)同村三右衛門から金二両を借用したが、その代償として幸助の忰太七を三右衛門方に一ヵ年季で奉公にだした。このとき取りかわされる証文は奉公人請状といわれ、「この者はたしかな者である。この者の奉公についてはよそから文句を言う者はいない。万一この者が年季途中逃亡したときは、持逃げした品物とともに三日のうちにたずねだし、主家にお返しする。もしこの者が長患いするか気に入らないときは、いつでも暇を出して下さい。そのときは、代りの者を差出すか身代金を返済するか、お望み次第により、決して貴方へはご迷惑をおかけしない。」という内容の一札を入れるのが普通であった。

 身代金による奉公勤めのほか、小作料の未納からこの代償として奉公人を差出すときもあった。たとえば谷中村の繁右衛門が文化八年と同九年の小作料金五両余を滞納した際、繁右衛門の忰富太郎が年十八才になったら奉公に差出し、この身代給金で小作の滞納金を返済するとの証文を入れている。ただし小作料の滞納金は年々一割の利息を加えたもので、奉公給金と差引勘定をするとりきめであった。

 このような、身代金や借金の代償で奉公勤めをする者が多かったが、なかには奉公年季中暇をとる者も珍しくなかった。このときは身代金あるいは借金を返済しなければならなかったが、これら奉公人は貧しい家のものであっただけに、この返済に困った。文化四年、登戸村の後家あきが、金九両の身代金をもって、娘のかるを村内の農家へ奉公に出したが、かるは年季途中奉公を勤めかねて暇を願った。かるの奉公勤めは金九両の身代金中、金六両分を勤めていたので、あと金三両を返済すれば自由の身であった。しかし母のあきはこの金三両の返済に困り、代償として奥行五間、間口二間の居宅と、奥行二間、間口一間の物置をかるの主家に差出すことを願って許された。居宅を失ったあきは親類に引取られることになったが、家恋し母恋しで暇をとった娘かるは、おそらく母と一緒にくらすことはできず、再び母と離ればなれにくらすほかなかったであろう。

 また文政十三年(一八三〇)、砂原村の治助が、金二両一分の身代金で娘わきを同村の農家に一年季の契約で奉公にだしたが、わきは病身となり奉公を勤めかねて暇を願った。このため治助は金二両一分の身代金の返済に困り、身代金証文を年一割五分の利息による一ヵ年季の借金証文に書替えたが、果して返済の目途があったかどうかは不明である。このほか一家の働き手であった七左衛門村の幸次郎は、一家の生計に差支え身代金をもって奉公にでたが、逆に働き手を失った一家が困窮した。これをみかねた村役人が奉公先の主家に掛合い、身代金を立替えて年季中の幸次郎を家に帰した。ところが幸次郎は老母と幼児を家に残し、夫婦ともふたたび農家へ年季奉公にでてしまった。いよいよ家計のやりくりがつかなくなったためである。これを知った村役人は激怒して幸次郎を責めたが、幸次郎は詫証文を入れて謝罪するばかりであった。結局家に残した老母と幼児を親類に預け、夫婦して年季奉公にでることが許された。

 このように奉公人の辛く悲しい話は数多いが、なかには奉公人が奉公年季中逃亡したり契約違反を重ねて主家を困らせることも珍しくなかった。慶応二年(一八六六)十二月、増林村の百姓次郎兵衛が証人となり、仙吉という者を同村百姓藤右衛門方へ身代金七両二分で一年季の奉公に入れた。ところが仙吉は年貢諸役の納入に差つかえ困っているからと称し、孫右衛門から金一三両二分を身代金のほかに融通をうけた。一ヵ年が過ぎて年季明けとなったので、孫右衛門は仙吉に金一三両二分の融通金の返済を迫った。仙吉はこれに対し、金子返済は困難であるので借金の代りに改めて奉公勤めをすると申出て主家を出たが、そのままこんどは四町野村の農家へ身代金奉公に出てしまった。驚いた孫右衛門は、証人の次郎兵衛や当人の仙吉に掛合ったが埒があかず、これを代官役所に訴えでた。この結果は不明であるが、おそらく計画的な奉公詐欺の一種であったろう。

 なお、村々で奉公人を使用する農家は珍しくなかったが、なかには四条村の久兵衛のように、天保十四年(一八四三)当時、下男六人、下女四人の計一〇人も雇傭していた者もあり、また、七左衛門村の八郎左衛門のように天保九年当時下男・下女合せて八人を使用していた者もいた。だが一般には奉公人を置かず、農繁期、あるいは月のうち何日かを限り、そのつど日傭人を使用する農家が多かったようである。