日傭人の農作業

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ではこれら日傭人は一年を通じ、どのような作業に従事したのであろうか。砂原村松沢家の文化十三年(一八一八)から同十五年にかけての、「日傭人日数覚書」によって、日傭人の農作業を月別(旧暦)にみると、つぎのごとくである。

一月  七日・八日は振舞、その後は、縄ない・肥汲・麦踏・米搗

二月  米搗・肥汲・莚織・木綿繰・そら豆作り・萱刈・堀浚・藻刈、初午は初午遊

三月  肥汲・芋植・田うない・苗間拵・種播・畑うない

四月  空豆抜・畑うない・田うない・代かき・麦刈

五月  代かき・麦刈・米搗・田うない・茶摘・苗取・田植・粟蒔・木綿づくり

六月  畑返し・小麦ぶち・田コスリ・田草取・米搗

七月  田草取・麦搗・用水普請

八月  麦搗・豆引・施肥・稲刈

九月  早稲米搗・稲刈・小麦蒔・芋掘・木綿とり

十月  米搗・稲刈・麦蒔・稲上・稲こき

十一月 稲こき・大根抜・麦施肥

十二月 施肥・米搗・餅搗・かざりつけ

そして休日が月例日待の日、とくに田植は卯の日、種蒔は申の日が作業を休むとある。

 すなわち一月から二月にかけては農閑期のためか、日傭人の労作業は主に縄ない・莚織り、木綿繰りなどの加工作業や、萱刈り堀浚い藻刈りなどの労役が多い。農作業では二月の初午が過ぎると、三月にかけて麦踏み、肥汲、そら豆作りなどの畑作業のほか、田うないや苗間ごしらえ、種子蒔などの田づくりの準備に忙しくなる。四月に入ると早くもそら豆や麦の収穫にとりかかる。この取入れ後は畑うない、あるいは田植のための田うないや代かき作業が五月にかけて続けられる。この合間をみて残りの麦を刈ったり、茶摘をしたり、粟を蒔いたり木綿づくりをする。そしてこれら畑作業に前後して田植が行なわれる。田植時は、猫の手も借りたいといわれるが、これら四月から五月にかけての農作業をみると、その忙しさの一端がわかるような気がする。やがて六月になると稲を植え終えた田んぼの田コスリや草取りがはじまり、麦打や米搗などの作業も続けられる。七月は引続いて田の草取が主な労作業であるが、ときには川水普請の労役に従事することもある。八月に入ると早稲の稲刈りがはじまり、畑方作業では豆類の収穫が行なわれる。九月から十月にかけては、中稲・晩稲の稲刈り作業や稲上げ作業が主な仕事であり、畑方作業では麦を蒔いたり、芋を掘ったり、木綿をとる作業が続けられる。十一月に入ると、稲上げや稲こき作業のほか、畑方では麦に肥料を施したり、大根抜きなどの作業がある。十二月は、もっぱら畑の施肥のほかは米搗や餅搗、そして正月を迎えるためのかざりつけ作業が行なわれる。

 以上が砂原村松沢家における日傭人の年間を通した主な労作業である。因みに松沢家日傭人の労働日数は、人によっては年間わずか十三日であったり、十九日であったりして一定しないが、多い者では月平均十三日余、年間一六一日も勤めている者がいる。これら日傭人の雇傭条件はつまびらかでないが、その多くは松沢家の小作人であったようである。そして前借による身代金、あるいはなんらかの貸借関係によって年間の雇傭日を何日間と定め、一定の期日に実際の稼働日数に応じて清算勘定をしていたようである。

砂原の旧村道

 なお、これら農作業に関しては、袋山村細沼家文書によると、細沼家では、二月の十五日から田うないをはじめ、三月の朔日には柿の苗木を植付ける。続いて、その年の気候によって異なるが、およそ三月の十四、五日頃稲種子を水にひたす。そして八十八夜の四、五日前に苗間をつくり、八十八夜の二、三日前に種子をまく。また四月十一日頃を中心に大豆の種まきを行なうとあり、およそこれらの作業期日が、当地域の一般的な農耕暦であったとみられる。