家格と縁組

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袋山村細沼家の「記録書」のなかに、細沼家の家訓がある。縁組などに関する教えである。すなわち聟・嫁祝儀婚縁の際、先方の支度や器量・容貌を望まず、その血筋をよくよく念入りに糺(ただ)すこと、婚縁の第一は血筋と親類であると訓(さと)している。江戸時代はこのように家格を第一に重んじたので、通婚の範囲もおのずから同じ家格どうしで行なわれることが多かった。

 たとえば、恩間村の旧家渡辺家の「家譜」によると、渡辺家代々の当主の嫁には、粕壁宿名主関根治郎右衛門・袋山村名主細沼吉左衛門・足立郡吉蔵新田の名主に中山幾之進・岩槻本宿村名主関根総右衛門家など、恩間村名主渡辺家に相応した家格の家の娘を選んでいる。またこの家の娘の嫁入先をみると、足立郡深作村名主八木橋七兵衛、上尾宿名主林源兵衛・伊原村名主深井七郎兵衛・瓦曾根村名主中村彦左衛門・見田方村割役名主宇田長左衛門家などがある。

 さらに麦塚村の旧家中村家の「家譜」によると、中村家代々の当主の妻には、恩間村名主渡辺佐助・大沢町名主江沢弥兵衛・蒲生村名主中野弥三郎・上間久里村名主上原次郎右衛門家などの娘を迎えている。また中村家から出た養子には、東方村中村七郎右衛門・大沢町嶋根喜右衛門家などがあり、大房村名主中村弥五左衛門や草加宿名主大川吉兵衛家に嫁(とつ)いだ娘もいる。なかには御殿女中を勤めているうち津軽藩士会田氏に嫁いだ娘や、また江戸の武家や商家に嫁いだ娘もいる。

 このほか東方村の旧家中村家の「家譜」によると、中村家代々の当主の妻には、登戸村名主関根八右衛門・西袋村名主小沢平太夫家などの娘を迎えており、またこの家から上瓦葺村名主黒須助右衛門家に嫁いだ娘などがいる。

 これらはわずかの例であるが、およそ同家格どうしでの婚姻や養子縁組を結んでいたので、旧家どうしの場合は、此較的遠方までの通婚圏が指摘されることもある。ことに旧家のなかには、旗本御家人や諸藩の士分、あるいは江戸の商家などへ養子に入る例も多い。たとえば、弘化年間から嘉永年間(一八四四~五四)にかけての幕府首席老中阿部正弘の侍医で、江戸城の御典医を勤めた伊沢柏軒の祖は、七左衛門村下組井出家から明和四年(一七六七)に宗家伊沢家の養子となった井沢信階であり、文政年間(一八一八~三〇)幕府学問所地誌調所に勤めていた小方金三郎は、実は砂原村名主松沢家の次男で、小方家へ養子に入った者である。