池田屋市兵衛

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江戸浅草福富町の豪商池田屋市兵衛成斎は、本名を稲垣宗輔という。明和五年(一七六八)五月、瓦曾根村名主中村彦左衛門重梁の次男に生れ、寛政二年(一七九〇)二三才のとき、浅草福富町池田屋市兵衛美久の養子になった。翌寛政三年養父美久の死去とともに家を継ぎ、池田屋市兵衛を襲名した。市兵衛は家業に精進するとともに余財を公けのために使うことを惜しまなかった。たとえば寛政十一年一月、浅草猿屋町火災のときその復興資金を献納したので町奉行根岸肥前守から賞されている。ついで文化三年(一八〇六)に金五〇〇両、同十年に金二〇〇両を御国恩として幕府に献納、さらに同十一年から孫子の代にいたるまで、毎年金五〇両づつの献納を幕府に願っている。

 一方、池田屋市兵衛成斎の実父瓦曾根村中村彦左衛門重梁は、かねてから困窮村民への義捐を心がけており、安永五年(一七七六)十一月の越ヶ谷町大火による瓦曾根村類焼者の救済をはじめ、天明三年(一七八三)の凶作時には米五〇俵を窮民に拠出、翌天明四年の水害にも村民の救済に尽力するなど、数々の義捐を施して幾度か幕府からこれを賞されたという。ことに重梁は凶年に備え幕府の御貸附役所へ金銭を積立てていたが、天明度の凶年にこれを下ろし瓦曾根村の窮民を救うことができた。その後も御貸附役所へ金銭の積立てを心がけていたが、これが実行できないうち、文政元年(一八一八)十二月に没した。

 江戸へ養子に行った池田屋市兵衛は、実父重梁の意志をつぎ、瓦曾根村凶年備金として金一〇〇両を父のかわりに猿屋町会所貸附役所に積金した。この御貸附金は天保七年(一八三六)の凶作年に役立てられ、積金のうち金九二両を下げて瓦曾根村窮民九二名へ金一両づつ配分してこれを救った。養子へ出ても実父への孝行を忘れず、父の志を見事にはたした一例である。

瓦曽根観音堂御貸附金の碑