通婚圏

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つぎに一般の農民の通婚圏を、たとえば七左衛門村御料分天保五年(一八三四)、同九年、明治三年(一八七〇)の宗門改帳によってみると、つぎのごとくである。

 まず天保五年度に、七左衛門村御料分の農家に嫁いできたものは合計一七名であり、その出身地は埼玉郡内では、西方村から九名、自村内から二名、長島・八条・尾ケ崎村から各一名である。このほか足立郡下野田村から一名、同郡戸塚村から養子として一名、江戸下谷稲荷町から一名となっている。一方七左衛門村御料分から嫁に出た娘は一三名であり、この嫁ぎ先は、同村内が二名、西方村へ七名、大房・弥十郎・足立郡玄蕃・葛飾郡加藤の各村へ各一名づつである。このほか忍領前谷村へ養子に行った者が一名いる(第37表参照)。

第37表 七左衛門村農民の通婚圏(天保5)
出身村名 入人数 出人数
埼玉郡越ヶ谷領七左衛門村 2 2
 〃 八条領西方村 9 7
 〃  〃 八条村 1
 〃 岩槻領谷中村 1
 〃  〃 長島村 1
 〃  〃 尾ヶ崎新田 1
 〃 新方領大房村 1
 〃  〃 弥十郎村 1
 〃 忍領前谷村 (1)
足立郡三沼領戸塚村 (1)
 〃 南部領玄蕃村 1
 〃  〃 下野田村 1
葛飾郡二郷半領加藤村 1
江戸下谷稲荷町 1
17(1) 13(1)

注( )は養子

 天保九年度は嫁にきたものは六名であり、その出身地は西方村から三名、村内と東方村・瓦曾根村から各一名である。一方嫁あるいは養子にでたものは二一名で、その行先は埼玉郡内では西方村へ一一名、村内・瓦曾根・蒲生・東方・大沢・西新井各村へ各一名、足立郡篠葉村・九左衛門新田・吉蔵新田・金右衛門新田へ各一名、江戸神田新銀町へ一名となっている。

 明治三年度は、嫁いできたものが七名、養子に入ったものが三名であり、嫁の出身地は西方村が五名、足立郡吉蔵新田と江戸神田新銀町から各一名である。養子は登戸・越ヶ谷・西新井から各一名宛である。一方、嫁あるいは養子にでたものは一二名で、このうち養子は大沢町と足立郡芝村に出たもの二名で、嫁は西方村から六名、瓦曾根・麦塚・葛飾郡拾壱軒・同八十日村の各一名である。

 七左衛門村御料分の嫁ならびに養子の出身地やその行先は、宗門人別帳でみた限り七左衛門村周辺の村が多いが、ことに西方村との交流がきわめて頻繁であるのは偶然ではないかも知れない。だがその必然性をいまのところあきらかにすることはできない。また、四条村正徳四年(一七一四)の宗門人別帳によってその通婚圏をみると、四条村へ嫁いだものの出身地は、埼玉郡・葛飾郡・足立郡に散在しているが、四条村を中心とした周辺村々であるのは変りない(第38表参照)。おそらく他の村々の通婚圏も、例外はあろうが、はやくから自村を中心とした周辺の村々との交流が行なわれていたであろう。

第38表 四条村農民の通婚圏(正徳4)
出身村名 人数
埼玉郡八条領四条村 5
 〃  〃 南百村 2
 〃  〃 東方村 3
 〃  〃 西方村 1
 〃  〃 千疋村 3
 〃  〃 柿木村 5
 〃 新方領増森村 2
 〃  〃 中島村 2
 〃 百間領道仏村 1
葛飾郡松伏領赤岩村 2
 〃  〃 川藤村 2
 〃  〃 内川村 1
 〃  〃 広島村 1
 〃 二郷半領保村新田 2
 〃  〃 高久村 1
 〃  〃 彦成村 2
 〃  〃 篠塚村 1
 〃  〃 高富村 1
足立郡谷古田領草加町 1
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