松沢家の支出

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江戸時代も中期以降になると、農村にも貨幣が浸透し、農家経済は貨幣を中心に展開されていたのは、安永年間(一七七二~八一)の砂原村六左衛門家の収支勘定書で知ることができた。それでは当時の農家では、日常どのような品物をどの位の値段で購入していたか、砂原村松沢家文書文化十四年(一八一七)の「金銀出入日記覚帳」によってみてみよう。

金銀出入日記覚帳

 松沢家の文化十四年当時の所持高や人別構成は不明であるが、寛政二年(一七九〇)の「宗旨人別改帳」によると、当時の所持高は高一〇石九斗四升八合、家内人別は男二人女二人の四名で奉公人はいない。また天保五年(一八三四)の「宗旨人別改帳」では、当時の所持高は高二二石一斗四合五勺であり、家内人別は男四人、女三人の七人、同じく奉公人はいない。なお松沢家は古くから砂原村の名主をつとめている家柄である。

 まず松沢家における日常の主な購入食品をみると、手作りの畑地が多かったためか、野菜物の購入は少なく、魚・果物・豆腐類によって占められている。たとえばこんにゃく一枚銭二八文、油揚一枚銭四文、豆腐一丁銭三二文、ところ天一丁銭三二文、さんま五把銭三〇文、のり銭八〇文、鰹節銭一〇〇文、塩二升銭四八文、このほか西瓜を銭二四文、吊し柿を銭一〇〇文、蜜柑を銭二四文で購入している。主な雑貨類では、灯籠を銭二四〇文、筆一本を銭一二文、わらじ三足を銭三六文、草履二足を銭三二文、盃一つを銭八四文、火消壺を銭六四文、釜のふたを銭一一六文、天秤棒を銭一一二文で購入しており、そのほかいかけ賃銭一〇〇文で鍋を、銭四〇文でやかんを修理している。玩具類の主なものでは、こま一箇を銭一六文、羽子板を銭二八八文、絵馬を銭七六文で求めており、また銭二四文の賃銭でときおり髪結にいっている。芝居見物や神仏の参詣旅行も珍しくないが、いずれも近辺の神社仏閣である。たとえば場所は不明であるが、銭三四八文で芝居の見物をしているし、銭五九四文の経費で武州松山参詣をしたり、銭四八二文の経費で葛飾郡高野村長福寺の施餓飢供養に出向いていた。このほか煎薬や粉薬など、医者からの買薬が多くみられるが、越中富山の薬屋に銭三四四文を支払っているので、富山の売薬も利用されていたことが知れる。

 こうして松沢家の文化十四年の支出は、肥料代などの生産費や、衣類などの諸店の支払い、そのほか無尽掛金などで金二一両一分の出費であった。一方当年の松沢家の収入は、収穫米や畑作の藍などの売却代が金一九両二分、ほかに金一分二朱の前年度繰越金を加え、金一九両三分二朱であり、差引き金一両余の赤字である。決して余裕ある生計ではなかったとみられ、衣料などを質入れしてやりくりしていた様子もみえる。たとえばこの年、太織羽織一枚、縞羽織一枚、茶紬女単物一枚など計五点の衣類を質にして、金一両を借金している。

 つぎに農家におけるこうした家計の具体的な実態を、いま少しくわしく西新井村の新井(勲)家の史料によってみてみよう。