慶応二年(一八六六)は、前年に引続き冷害による不作年であったので、年貢は破免を願い検見が実施された。作毛は平均坪五合六才の実入りであり、村全体の収穫量を平均すると平年作の五三%の損毛であった。
このため新井家の年貢も、田方定免年貢米四七俵一斗余のところ、米二三俵の年貢納入であり、畑方年貢は金三分二朱であった。また新井家の小作入付も、一反につき二斗から五斗の小作料引を行なったので、平年米三五俵の作徳のところ、慶応二年は米二九俵の小作米である。畑方小作金も金二両三朱余であった。なお、当年の新井家の田方総収量は、年貢米が二三俵、売米が四四俵、作徳米が二九俵、これに自家飯米や種籾を加えると、合計一〇〇俵前後とみられる。これを平年作であった明治七年(一八七四)の収量でみると、手作り地収穫米九五俵一斗、作徳米四一俵七升であるので、標準的な平年収量は米一四〇俵前後と推定されよう。
さて別表新井家収支勘定表の収入の部をみると、新井家の主な収入は、糯米を含めた米であり、慶応二年は四四俵を売却して金一四五両一分を取得した。新井家ではこの米を主に鳩ケ谷町の弥右衛門方に売却しているが、越ヶ谷町より高値で取引されたためかも知れない。また新井家屋敷内の山林から伐出された薪やほだを、例年になく多量に出荷したが、出荷先は越ヶ谷宿の豆腐屋やうどん屋、西新井村の紺屋などであり、金高にして二一両余に及んでいる。ほかに例年の通り、灰を岩槻宿巳之次方に売っているが、代金は灰一駄につき銭五貫文、この運賃は一駄に銭六〇〇文である。また柿の出荷がきわめて少ないが、例年は柿を多量に出荷している。たとえば、慶応元年度をみると、金五両二分三朱余の柿を、千住宿泉屋方や越ヶ谷宿巳之介方へ出荷しているので、おそらく当年は柿も不作であったのであろう。このほか、米糠や小豆の売却代それに畑方小作金を加えると、新井家の慶応二年の総収入は金一七一両二分二朱余であった。
ついで新井家の慶応二年の支出をみよう。この支出面は便宜上、畑方年貢を含め、伝馬役金や村役金などの公共支出金を諸役費に、香奠や会合などに消費された酒肴代などを交際費に、衣服や燃料等を需要費に、魚類・野菜・調味料等を食料費に、肥料や道具類を生産費に、諸店の支払いや借金をその他に、それに無尽掛金の七項目に分類してこれを集計した。このうち〝その他〟の項に入れた諸店の支払金三三両余の内訳は不明だが、おそらく肥料であったり、食料であったり、衣服や諸道具であったり、あるいは貸借関係であったりして、さきに挙げた項目のなかに分散されるものと思われる。ところがこの不明な点の多い諸店払や借金返済が、新井家支出の二六%と大きな比率を示しているので、適確な新井家支出の内訳を分析することは困難である。しかしそのおよその傾向を捉えることは可能であろう。なお、銭二二四文の絵馬代、金一分の南州画二枚、銭二〇〇文の瓦版、銭三〇八文の釣道具は、嗜好品として別な項目に入れるべきものであるが、一応需用費のなかに入れた。
この二六%を占める〝その他〟の項についで大きいのが公金納入の諸役費であり、金三二両一分余である。これは新井家総支出の二〇%近くを占めている。なかでも助郷伝馬出金は金一五両余に及び、農家経済を圧迫する一つの大きな負担であったことを示している。さらに宿場財政の窮迫から、当年はとくに助郷余荷の本陣助成金一両二分余が徴されていたし、この年はじめて徴用された幕府兵賦の賄金も金二両三朱ほど徴収されている。また検見のための諸費用が、高割で金一〇両近くも課せられているが、幕末から明治初年にかけては慢性的な不作が続き、破免検見が続いたので、検見の費用が例年の必要経費でもあった。このほか用悪水路・圦樋・橋梁などの普請が施工されたときは、相応な諸夫銭が課せられたが、当年は幕府の新川見分役人の宿泊賄い割当金と、定例の藻刈出金が徴収されただけであったので、諸普請の施工はなかったのであろう。なお、村役出金とは、定使給や宗門人別改帳作成などの割当金であるが、広い意味では諸普請金なども村役に含まれる。
つぎに無尽の掛金が予想外に大きい。無尽講は当時の唯一の金融機関であったが、余裕金を預金するというよりは、むしろ農家経営を維持するための苦しい算段による掛金であったろう。新井家の当年の無尽掛金は、二一口、金二八両余にのぼっている。このなかには、相続講無尽・潰れ家無尽・萱講無尽などいろいろな名称の無尽があるが、なかには橋無尽のように、公共的な普請資金のための積立無尽などが含まれている。
新井家総支出の一三%を占める生産費は、主に肥料としての粕代金であるが、そのほか鍬の購入や鍛冶屋の払い、ならびに箕・桶・莚などの諸道具代である。食料費は農家である関係上、自給の度合いが大きかったと思われるが、それでも金一八両近くの出費で新井家総支出の一〇%以上を占めている。このうち自家食料とみられる麦の購入が目立つが、豆腐や魚も日常の食用に供されておりこの出費も大きい。季節によっては鰹・鮪・さんま・いわしなどがしばしば購入されている。なかでも意外なのは、人参・午蒡(ごぼう)・大根・せり・三ツ葉などの野菜が多量に購入されているが、これは新井家では畑作が少なかったためであろう。調味料は、市販の砂糖・油・酢などが使われているが、宝印の醤油をしばしば多量に購入している。味噌はおそらく自家醸造であったとみられ、市販の味噌は購入していない。嗜好品は酒と煙草・茶・菓子などであるが、煙草は少量づつ頻繁に求めているのは現在と変りはない。菓子は主にせんべいやまんじゅうであるが、季節によっては蜜柑などもある。このほか盆などには、うどん・そうめんを購入しているが、水田地域の当地区では、めん類はご馳走の一つであったのであろう。
つぎに需用費のなかでは、衣類の購入が目立つが、家族数に比してその品数がきわめて少ない。しかも衣料費の大部分は、反物や単物の金高の嵩んだ品物であり、そのほかは足袋・袖口・糸などである。雑貨として取扱ったもののなかには、草履・下駄・傘・提灯などがあるが、この品数も少ない。燃料は堅炭二俵分が燃料費の大部分を占めているが、これは来客用のものであろう。紙は当時としては高価なものであり、反古紙をすきかえして用いることもあったとみえ、すきかえし代がしばしば書入れられている。薬代は、医者への礼金も含まれているが、売薬の購入が多い。
交際費のなかで大きな比重を占めているのは、母や妻子あるいは親戚の子に与えるお年玉などの小遣いと、当主が会合などで飲食する酒肴や茶代、それに嫁講・若者講・田植講・鎮守講・代参講などの割当金である。香奠・法事・見舞・御布施・御神酒代・祝儀金も、それぞれ重要な出費であったが、神酒代のなかには、伊勢神宮の奉納金も含まれており、伊勢神宮内宮・外宮の御師の村々への浸透が知れる。そのほか駄賃とは主に用事依頼の礼金などであり、これらを含め新井家の交際費は総支出の六・三%にあたっている。
以上の新井家収支をみる限りにおいては、収入が金一七一両余、支出が金一七〇両余で、収支の差がみられず、新井家の当年は健全な家計であったとみられよう。このほか小作人らへの身代貸金や時貸金が二九両ほどあり、また金額は不明であるが一部の無尽金を請戻していたが、これらは家計の収支勘定にどのような作用を及ぼしたかつまびらかでないので、一応収支勘定の枠外においた。