明治七年の収支勘定

1017~1019 / 1301ページ

明治七年(一八七四)当時の新井家の田畑屋敷所持高は、慶応二年(一八六六)度と変りない。当年の年貢は田方年貢米二七俵二斗三合余、畑方年貢は金一両二朱余である。田入付は一町六反二畝一五歩でこの作徳米が米三八俵一斗余、畑方小作金は金四両二朱余である。このうち田方年貢米は現物であるので収支の外においた。

 まず当年の収入からみていくと、収穫米五三俵の売却代金一六〇両二分三朱余が収入の中心である。このほか当年の新井家収支の特徴をなしているのは、三六俵という大量の肥料粕を越ヶ谷宿角屋から米六一俵と交換し、このうち粕一〇俵余、この代金三一両一分二朱を売却して農家経営の資金に組入れていることである。なお前年度は藍玉や蓮根を売却していたが、当年はみられない。また薪類もすでに商品価値が小さくなったせいか、この頃から売られてない。この年の新井家総収入は、「万覚帳」にみられる限りにおいては金二〇三両二分余であった。

 一方、支出のうちの諸役金をみると、伝馬出金や兵賦出金が廃止されたかわりに、学校や戸長扱所の出金が目立ってくる。このほか人頭割・高割の課税が徴収されているが、これはおそらく県費などに支出されたものであろう。また当年は末田用水路の自普請が施工されたので、多額な普請割当金が課せられている。これら公費を明治初期には民費と称したが、この民費は金二五両二分余、新井家総支出の一二%にたっしていた。

 無尽講は、明治に入っても盛んであったようであり、新井家では三〇口、金四七両一分二朱余、総支出の二二%を無尽の掛金に支出している。

 生産費では、その主なものでは、金四両一分二朱で水車一台を、金三分一朱で千石〓(せんごくどおし)を、金一分一朱で唐箕を、金一分と銭四〇〇文で鍬等を購入している。野菜などの苗も自給のためか少額ながらきゅうり・茄子・しょうが・くわいなどを求めていた。肥料の粕も多量に購入されているが、これは米の現物と交換していたので支出のうちから除いた。

 交際費は、関係寺社や親類などの年玉を含め、家族への小遣いがもっとも大きい。ついで会合などの酒代・茶代、それに見舞・礼金・香奠・供養代そのほか代参講・娘講・田植講などの講金等があり総支出の一三%の出金である。

 需用費では、その主なものは大釜を金一四両で購入しているので、傘・下駄・土びんなど雑貨類を含め金二一両余と嵩んでいる。なかに金一分一朱で日本傘一本を求めているが、また金一両二分で洋傘を購入しているので、当時洋傘が当地域にもすでに普及されていたようである。また暦を銭二五〇文で、祭文(さいもん)を二二五文で求めている。燃料はほとんどが自給で調達していたとみられ、金三朱余の燃料代は堅炭一俵と付木の購入代である。衣類は反物や半襟・足袋・手掛け・袖口・染物などで金一二両余が出費され需用費のなかの大きな比重を占めている。このほか新井家では、この年畳の敷替えや門の修復普請を行なっており、例年にみられない家屋普請金の出費があったので、当年の新井家需用費は金四八両余と総支出の二三%にたっしていた。

 食料費の内訳は慶応二年度と大きな差異はみられないが、銭八〇文であった豆腐が当年は銭一八〇文と高騰しており全般的に物価の上昇がみられ、総支出の一九%が食料費で占められている。酒の購入が例年よりきわめて多いが、おそらく普請祝いなどの振舞ごとがあったためであろう。

 こうして新井家の明治七年の支出は金二一一両一分二朱であり、収入は金二〇三両三分余で、およそ収支のつり合いはとれている。だが、このほか日傭人の賃金や時貸などの貸借関係、ならびに無尽金の使途など同じく不明な点が多い。したがってこの収支勘定が、かならずしも新井家の適確な家計を示したものとはいえないが、当時の農家における家計のおよその状態を知ることができよう。