六浦藩砂原村の村入用

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これらの村入用をまず六浦藩領砂原村天保九年(一八三八)の一月から四月までの「村入用帳」によってみると、つぎのとおりである。ただし砂原村役人の給料は、役高引と称し、一定の所持高にかかる村入用費が免除される方法をとっていたので、村役人の給料は村入用に含まれてない。またこの村入用帳は一年を通じた村入用ではないので、砂原村村入用の全貌をここで明らかにできないが、およその概要を知ることができるであろう。

村入用帳

 砂原村における天保九年一月から四月までの村入用の主な項目を示すと、巡見使御用割合費、名主の出府雑用費、代官ならびに鷹場餌差の宿泊賄い費、村役人の寄合費、筆墨紙ろうそく代、飛脚賃・病人の村送り費、鷹場野廻りの通行賄い費、諸祝儀代などがあげられる。このほか御免勧化や物乞いなどの喜捨費もみられる。

 ことにこれら物乞いのなかで浪人の合力(ごうりき)が多いのが特徴である。たとえば一月から四月までの砂原村物乞件数は二七件中、子供連れの物乞一件、旅僧二件、座頭二件に対し、浪人が二二件その人数は五五人に及んでいる。なかには六人七人の集団で昼食や宿泊を強要するときもあるが、村ではこのときは銭五〇文から一〇〇文を与えている。これは特殊な場合で、浪人の場合は普通銭二〇文から銭三〇文であり、座頭や旅僧のときはいずれも銭一二文宛である。幕府では浪人の村内立入りの禁令を発してしばしばこれを取締っているが、これは前記のように集団で合力を乞いながら、村々を頻繁に廻っていた事情によるものであろう。

 また尺八を吹きながら廻村して合力を乞う虚無僧も村々にとっては頭痛の種であった。西方村須賀家文書文化九年(一八一二)の「虚無僧留場取締一札」によると、足立郡与野町上峯村松源寺の虚無僧が、寄進合力を求めて村々を巡廻してくるが、なかにはむずかしい者がいて難題を持ちかけたり止宿を強要する者がいて村方で難儀している。このため村中相談のうえ毎年金一分二朱の初穂料を松源寺に納入するので、西方村を虚無僧留場(立入禁止)に指定してほしいと松源寺に願っている。これに対し松源寺では不埒な虚無僧がその村方に巡回しないよう取締り、御用・宗用で止宿する者以外の宿泊は禁止する。もし不埒な虚無僧がきたときは、早速松源寺まで注進されたいという取締り一札を西方村に入れていた。すなわち定められた金銭を松源寺に納めるかわり、虚無僧の立入り禁止を願うものであり、この村を留場と称した。このほか葛飾郡沢目木村東陽寺にも一定の金銭を納め松源寺同様虚無僧の留場を願っているので、沢目木東陽寺配下の虚無僧も当地域に入りこんでいたようである。砂原村でも、与野の松源寺に虚無僧留場を願っていたとみられ、当年の一月から四月までに銭三〇〇文を松源寺に納めている。

虚無僧留場証文

 こうして砂原村ではこれら喜捨分を含め、一月から四月までの村入用は銭一八貫五〇文であった。砂原村ではこれを村高六一〇石に割合い、高一石につき銭三二文宛の割当でこれを徴収した。なお、この村入用のなかで金額の大きいのは、名主出府二回分の旅費が銭三貫一八四文、代官の通行賄い割合分が金一分と銭二四文、鷹場餌差の宿泊賄いが二回分で銭一貫二〇〇文、鷹場野廻り衆の祝儀銭三二六文、村役人の寄合四回分で銭二〇〇文などである。しかし村の訴訟や用水などの自普請があったときは、多額な臨時入用が賦課されたし、砂原村一月から四月までの村入用にあらわれなかったものに、助郷伝馬の諸掛りがあり、この助郷費用が村入用に占める比重は大きいものであった。