岩槻藩領西新井村は、高一四〇石八斗余の村である(同村には他に約一〇〇〇石の幕領分あり)。この村の村入用を、西新井村新井(省)家文書文化五年(一八〇八)の「村方諸夫銭調帳」によってみると、つぎのごとくである。
岩槻藩領村々では、例年岩槻藩の地方を担当する郡奉行や代官ならびに割元名主へ年玉や暑中見舞・寒中見舞をするのが習わしであったようである。西新井村では、この年これらの役人にお年玉として銭二貫六〇〇文、暑中見舞として銭一貫一〇〇文のそうめん、寒中見舞として銭一貫二二〇文の白砂糖を贈っている。このほか藩役人の祝儀があると、そのつど音物として紙を贈っていたとみられ、この年は五人分この紙代銭七四六文を出していた。さらに村々では例年割元名主へ需用費を納めることになっており、私領西新井村の当年の筆墨紙代の割当は銭三六〇文であった。これらは幕領村々にみられない村入用の項目である。
一方村用としては筆墨紙代が銭二〇〇文、五人組帳作成費が銭一三二文、村役人寄合雑用費が銭七〇〇文、年貢米改め出役人の賄い入用費六四八文、名主御用雑費二貫一〇〇文などがみられる。また西新井村は幕府領と岩槻藩領の二給所であったが、普請や鷹場その他の地域にかかる負担は同一の組合組織であり、私領西新井村の文化五年の御料・私領組合諸入用割合銭は二貫九四三文であった。これらはほぼ定例の諸掛りであるが、当年は新川の普請を願っていたので、この普請願入用銭が銭三〇八文、それに銭一貫二九五文の江戸宿大塚屋への合力銭が臨時に加わり、私領西新井村の村入用は合計銭一四貫九七二文であった。私領西新井村では村役人の役給は役高引であったので、村高一四〇石八斗余から名主役高二〇石と、組頭役高一三石を除き、残り高一〇七石八斗余に当年の村入用銭一四貫九七二文を割当てたので、高一石につき銭一三八文八分の割当となった。ただしこれには助郷伝馬費用が含まれていないので、助郷諸費用は別勘定になっていたのであろう。
このほか訴訟出入や用水河川などの普請が行なわれたときは、臨時の負担がこれに加わる。たとえば文政九年(一八二六)、西新井村助郷人馬不参滞り訴訟一件のときは、訴答人や差添人の江戸出府宿泊数が延六七九泊り、この間の雑用銭は銀二貫七一六匁にのぼった。この費用の調達は、西新井村高一一〇〇石余に割合、私領西新井村では銀三四四匁の割当となったので一石あたり銀三匁余の負担になったという。
このように村入用はその村により、その年によってその種別や支出も大きく異なっていた。しかも臨時の支出が多かったので、平均的な村入用や適確な村入用を示すことは困難である。だがこの村入用の農民負担はきわめて重かったのは事実で、村方出入のときなどには、争論条項のなかに村入用の使途や村入用の規制をめぐる問題が含まれている例が多い。