鳩ヶ谷道切割り争論

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七左衛門村は、通称赤山道とも呼ばれる鳩ヶ谷道を区切り、北方を上組、南方を下組と呼んで行政的に分けられていた。この鳩ヶ谷道は、田面からさほど高くなかったので、大水急水のときは、上郷からの押水が道路を溢れて下組に流れこんだ。このため下組耕地が水損を蒙ることが多かったので、享保八年(一七二三)、下組は道路に土盛をほどこして道を高くし、上組からの氾濫水を阻止しようとはかった、このため両組の争いとなったが、結局このときは、両組話し合いのうえ、道路の高さを規定した議定を取りかわして内済におさめた。

 しかしその後下組は、鳩ヶ谷道の地盤が沈下し、雨天の際は人馬の通行が難儀であるのを理由に、支配伊奈半左衛門役所へ道路の土盛り普請を願い、伊奈半左衛門役所の豊嶋庄七出役のもとに土盛普請を施工した。このため享保十九年の出水の際、鳩ヶ谷道が水除道となり七左衛門村上組耕地が一面の水冠りとなった。そこで上組の農民一同が鳩ヶ谷道を切割って上組耕地の湛水を下組耕地に落したが、これを不法とした下組の訴訟により再び両組の争論となった。この争論は長く続けられたようであるが、元文元年(一七三六)伊奈半左衛門役所の裁許により、上組の鳩ヶ谷道切割りは暴挙であるとして、上組農民一同叱責されている。

 その後、七左衛門村下組井出家の「家譜」によると、明和八年(一七七八)から翌安永元年にかけては霖雨が続き、七左衛門村耕地をはじめ各所の耕地とも一面水びたしの状態となった。このとき下組の年寄役井出門平が、下組の耕地を水から守るため鳩ヶ谷道に土盛りを施し上郷からの流水を防ごうとした。これに怒った上組の農民一同は、上組名主井出八郎兵衛を先頭に、鳶口や鋤などの得物を携え、鳩ヶ谷道の切割りにかかった。これをみた剛勇の聞え高い井出門平は、単身上組の集団に立向い、八郎兵衛を水中に投込んだうえ、上組の農民を退散させたという。

七左衛門の井出家

 下組ではこれを契機に、翌安永二年鳩ヶ谷道の土盛り普請を、改めて支配所に願い出たが、上組でもこれを黙止できず再度の争論となった。上組の申し分は、鳩ヶ谷道の上置普請が実施されては、下組高三〇〇石の耕地のため、七左衛門村上組、ならびに越巻村・後谷村・神明下村の入会耕地高一一〇〇石ほどの耕地が溜井同様になり水損を免がれない。鳩ヶ谷道に一四間圦と称する悪水圦樋が設けられているが、大水の際は綾瀬川からの逆水が耕地を襲い、圦樋は用をなさない。したがって鳩ヶ谷道を現在より高く土盛すると、上郷高一一〇〇石の耕地は水没してしまう、と主張した。この争論は安永三年三月、幕府評定所に移されて争われることになったが、その結果は不明である。しかし井出家「家譜」によると、これより定杭をもって高低を定めるとあるので、道路の高さが改めて定められたようである。