大吉・向畑境野道争論

1028~1029 / 1301ページ

大吉村染谷家文書によると、大吉・向畑両村境の野道は、元禄八年二六九五)の検地以来、幅九尺、高さは田面から一尺二、三寸を保ち、主要な農道として用いられてきた。

向畑・大吉境野道

 ところが寛保三年(一七四三)、大吉村はこの野道の高さを田面から二尺五寸まで土盛りする上置自普請を伊奈半左衛門役所に訴願した。これを知った向畑村はじめ川崎村・大杉村・船渡村などの上郷村々は驚いてこれに反対した。境野道を高くすると、上郷村々耕地の湛水が野道に遮ぎられて流下しないからである。だが、大吉村に出張した伊奈半左衛門役所の出役の見分の結果、大吉村の願い通り上置自普請が認められた。このとき向畑村はじめ上郷村々は、もし出水のときは境野道を以前の高さにまで削りとり、上郷耕地の急水を流すよう出役に願った。これに対し出役は出水のつどその状況により、上郷・下郷対談のうえ、話し合いで取りはからうべき旨を示した。

 こうして境野道の上置普請が大吉村と向畑村の負担で実施されたが、同年六月、関東一帯の大雨による出水があり、新方領耕地一円は水冠りになった。このため向畑村はじめ上郷村々は約束通り野道の高さを一尺二、三寸に切下げて上郷耕地の湛水を流すよう大吉村に迫った。このときは大吉村も非常時態を認めて上郷村の申入れにしたがったので、境野道は再び以前のごとき高さに削りとられた。

 その後、明和三年(一七六六)、大吉村は代官野田弥市右衛門役所に、今度は悪水除土手の名目で、境野道の高さ二尺五寸の上置普請を願いでた。向畑村はじめ上郷村では、この境野道が大吉村の水除土手に規定されると、たとえ急水の際でも野道を切割ることがむずかしくなるので、これに抗議して争論となった。この争論は奉行所で争われたが、各村の提出した証拠書類はいずれも確かなものでなく、裁判は難航したようである。

 奉行所では、論所地改役人を出張させ、実地検分を行なわせたりしたが、結局大吉村の耕地はこの周辺ではもっとも低場の土地であり、他村にくらべその収穫量が劣っていることが認められ、奉行所裁許では野道の高さは田面から二尺と規定された。そして野道に高低のないよう所々に定杭を打ち、二尺より地盤が低下したときは、大吉・向畑両村の負担で上置自普請を施工することが申渡された。これらは道路が水除けとなり、その高さをめぐって上郷・下郷が争われた典型的な例であろう。