堤防切割り騒動

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大水による河川の氾濫には、それぞれの耕地や人命家財を守るため、上郷・下郷の対立が生まれ、なかには堤防を切割って水を下郷に落したりしたため争論となることが珍しくなかった。

 たとえば袋山村細沼家文書によると、宝暦七年(一七五七)五月関東一帯は大風雨による大水になった。このとき恩間村と袋山村の境に設けられていた水除堤を、恩間村の農民が強引に切割って、上郷村々に溢れた氾濫水を袋山村に落した。このため大きな被害をうけた袋山村はこれを支配役所に訴えでた。この争論は幕府評定所に移されて争われたが、評定所では用悪水をめぐる争論であるので、これを内済にするよう説得し、公事宿ともよばれ訴訟を専門に扱った宿泊施設の江戸宿を仲介人にたてて訴答の折衝にあたらせた。この結果、切りくずされた論所堤防は今までより一尺七寸五分の上置土盛りをほどこし、そのかわりこの堤防下に内法五寸五分四方の埋樋を敷設して恩間村の湛水を当所から落す。このほか恩間村地蔵院裏耕地の古土手を除いては、悪水を一切袋山村へ流さない、という取りきめが示され、同年十一月内済となった。

恩間地蔵院

 このような堤防切割りは大水のたび各所で発生したが、ことに七左衛門村井出家文書によると、武州足立郡小針領の元荒川水除堤である備前堤をめぐる堤防切割り争論では、上郷側鴻巣宿はじめ一宿二四ヵ村、下郷側上瓦葺村はじめ四二ヵ村の対立による大規模なものであった。明和三年(一七六六)、ならびに文政七年(一八二四)の関東大出水時にも、屋根まで水につかった上郷村々の農民によって備前堤が切割られ、これを阻止しようとした下郷村の農民と乱闘騒ぎをおこして怪我人もでる始末であったという。

 ついで安政六年(一八五九)七月と八月の関東出水の際も、河川の氾濫が続いたので、小針領家村ほか下郷村々は必死に備前堤の補強につとめ、元荒川の氾濫を防止した。九月に入り氾濫水もおさまったようだったので、下郷村の農民一同水防番人を数人置いて引揚げたが、同月十六日、水に没した五丁台村はじめ上郷村の者数十人、おのおの鋤や鍬を携え、船に乗って突然下郷打の水防番人を襲った。水防番の数人はいち早く逃げ去ったが、このうち小針領家村百姓竹五郎は捕えられ簀巻にされたうえ堤防二ヵ所が切割られた。この備前堤決潰による押水は、上瓦葺村地内見沼代用水の掛樋を押流して、しばしば下郷一円の大洪水を招いていたものであり、備前堤によって水吐けを阻まれている上郷と下郷の対立は、ことのほか激しかったようである。

 この堤防切割り一件は訴訟となったが、結局奉行所の吟味により、備前堤の高さが改めて定められ内済処分になった。なおこのとき、備前堤切所築立て修復入用として、当地域の長島・越巻・七左衛門・大間野の各村など、綾瀬川付の村々が、高一〇〇石につき金二分宛の出金協力を備前堤普請組合から要請された。

備前堤出銭取立帳