安政六年七月の大風雨で、関東の諸川は満水となり、所々で堤防が決潰したり氾濫したりした。このため、大吉村染谷家文書によると、当地域の新方領も上郷からの押水で一円の大水になった。ことに新方領のうち増林・増森・中島・小林・花田の五ヵ村は、古利根川・元荒川・逆川(鷺後用水)によって四方を囲まれ、また中央に千間堀が貫通しているので四方から水に襲われる危険な地域であった。
これら河川に囲まれた諸村は、水防箇所の範囲が多く、老幼男女を残らずくり出しても手が廻りかねたので、とくに支配役所から役人の出張を要請し、その指図にしたがって水防につとめた。このうち増林村では、松伏溜井に伏こまれた各用水圦の圦戸を全開し、洗流堰を切開いて古利根川の水勢を弱める努力を続けた。しかしこのときは元荒川の増水が強く、元荒川の押水が逆川へ逆流しはじめたので逆川の水位が急に上昇し、大吉村堤防を氾濫して怒濤のごとく新方領上郷村々耕地を襲った。
上郷からの押水と、逆川の氾濫水をまともにうけた大吉村はじめ近村の農民は、八月三日昼九ッ時(十二時)、大吉村名主周次郎・向畑村名主見習次郎右衛門を先頭に、おのおの鳶口その他の道具を携えて逆川堤防に集まり、田舟に乗って増林村側の堤防を切割ろうとはかった。驚いた増林村方では、最寄りの水防人足を集めて逆川堤防の警備にあたらせたが、大吉村はじめ上郷村の農民数十人が田舟で対岸に押渡り、字宮ノ下の堤防を強引に切割って引揚げていった。
増林村方では、この不法な堤防切割りに抗議しようとしていた矢先の同日七ッ時(午後四時)頃、弥十郎村の農民二人が鋤や鍬を携え、船で逆川を下ってきた。増林村方ではいち早くこれを発見し、両名を取って押え、逆川への乗り入れ理由を問いつめて、堤防切割りのための船下げであることを自供させた。増林村では両人を捕縛して水防出役人にこれを報告し、この証拠人をもとに上郷村との掛合に入ろうとした。だがこのとき逆川堤防の切割りによって増林・花田などの諸村の浸水がひどく、また元荒川通り花田村の堤防が決潰したため、千間堀や増林の堰枠がきわめて危険な状態になった。このため抗議の掛合どころではなくなった。
こうして老幼男女水防作業に追われていたとき、松伏村名主石川民部が堤防切割り一件の仲裁人として増林村をおとずれ、上郷村の堤防切割りは不法な処置であった、切割った堤防箇所は上郷村が元通りに修復し、かつ後日のために確かな議定を結ぶので、捕えられている両名をひとまず引渡してほしい、と申し入れてきた。増林村方では、危急の水防に追われていたときであり、かつ石川民部を信用して出役人にこれを報告し、仮議定を結ぶことも忘れて上郷村の両名を持参の道具とともに民部へ引渡した。
ところが洪水がおさまった後、増林村ほか四ヵ村は切割り箇所の堤防修復、ならびに議定締結を上郷村に申し入れたが、上郷村では堤防修復や議定締結を約束した覚えはないとこれを拒んだ。欺されたと知った増林村ほか四ヵ村はこれに憤慨し、石川民部をはじめ上郷五ヵ村を相手にこれを奉行所へ出訴した。この結果は史料的に不明であるが、洪水は一村にかかわる問題でなく、相互一円の災難であったので、このときもおそらく話し合いによる内済処分に付されたものと思われる。