末田・須賀堰争論

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用水は田畑耕作に必要欠くことのできない大事なものであったので、用水取得のため上郷と下郷村々との間で、しばしば争論が展開された。このうち当地域の用水は、松伏溜井・瓦曾根溜井・末田溜井・須賀溜井のいずれかの溜井から引水されたが、この溜井を堰止める堰の高低でも、上郷・下郷の争いとなることもあった。すなわち堰を高くして溜井の水位を上げると、用水の流れは豊富となるが、上郷村々はこのため悪水の落しが差支え、水損を蒙る恐れがあったからである。

 砂原村松沢家文書によると享保元年(一七一八)末田・須賀の両村は、用水の確保をはかり、末田・須賀堰の流し台を高く築き留めた。つまり溜井堰は一定の水位を超えると堰の上を溢れて流れ落ちる仕組になっており、この箇所を流し台とも堰台とも称し、また竹洗流しとも呼んだ。堰の上に竹が簀子(すこ)のように組まれていたからである。いずれにせよ須賀村と末田村はこの堰台をさらに高くして溜井の水位をあげたのである。

 これに対し忍領・騎西領・菖蒲領・岩槻領の元荒川筋上郷村々は、悪水が滞溜し田畑の損毛を招くとして、これを河川掛り代官会田伊右衛門に訴えでた。代官は実地検分のうえ、堰台を元の高さにまで下げるよう両村を説得したが、末田村はこの説得に応ぜず、堰台を下げようとはしなかった。このため上郷村では、翌享保二年、河川掛りを交代した石川伝兵衛に改めて堰台引下げを訴願した。石川伝兵衛も堰台の引下げを末田村に命じ、堰台の高さ川底から八間の定杭を建てることを通達した。須賀村ではこれを諒承し、早速定杭を建てたが、末田村はなをこれに応じようとせず、定杭の建立を延引しようとした。末田村のこの強硬な態度に上郷村々は困り、享保四年六月、これを奉行所に訴えでた。この結果は不明であるが、末田・須賀堰はその後寛延二年(一七四九)、堰台が石堰に改められ、石造の水位標識杭が建てられた。

末田石堰定杭