西新井村新堰争論

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同じく砂原村松沢家文書によると、荻島・小曾川・砂原各村の入交耕地、字沼向には古くから悪水堀が設けられており、上郷岩槻領村々からの落し水もこの堀に流され、西新井村を経て越巻村地内から新川(末田用水)に落されていた。ところが西新井村はこの悪水堀の水を同村地内で築き留め、これを清兵衛堰と称して西新井・長島両村の用水に用いた。このため悪水の滞溜に悩む荻島村ほか上郷村々は、西新井村の清兵衛堰を不法な新堰として元文元年(一七三六)三月、堰の撤去を奉行所に訴えでた。

 これに対し西新井村は、上郷の入交耕地から西新井村を流れるこの堀川は、その昔西新井村田方一〇〇町歩余の内、五〇町歩の耕地が地高の場所であり、旱損のないよう当時の支配伊奈半左衛門役所から用水堀として認められた堀である。この堀川から用水を引かねば、西新井村高場耕地の灌水ができない。堰の造成も最近その場所を移し変えたもので新堰ではない、と主張して争った。

荻島の旧村道

 この争論は論所堀が用水か悪水かによって争われたが、訴答の証拠書物をもとに取調べが進められ、同年七月奉行所裁許の申渡しがあった。これによると、この論所堀は八〇年余の以前、つまり承応年間から明暦年間(一六五二~五八)にかけて、西新井村が荻島村と相対のうえ、用水取入れのために引いた堀であり、用水堀に紛れもないと判断された。しかし上郷村々が異議を申立ててこれをつぶそうともせず、今まで差障りなく悪水堀に使用していたので今後とも悪水を堀に落すことは差支えない。したがって当の論所堀は以後用悪水堀と認める。そこで西新井・長島両村が用水入用のときは、堰を設けて水を築留めてもよいが、用水取入れがすみ次方堰を取払う。また上郷村々が堀川の堰留によって悪水が耕地に滞溜するときは、そのつど話し合いのうえ堰を切開いて悪水を流す。堰の築留ならびにその取払いはそれぞれ双方立会のうえ示談によってこれを行う、というような裁許の要旨であった。