七左衛門村松沢家天保九年(一八三八)の「大堰一件谷中村訴状」によると、荻島地区・出羽地区を貫流する用悪水路出羽堀は、当時末田村地内字巻の上圦より西新井村字三ツ俣までの間が堀巾三間半、同所から七左衛門村茂左衛門脇までの間が幅四間、それより幅二間に狭まり、また下流蒲生村地内綾瀬川落口までの間が堀幅四間であったという。このうち七左衛門村地内堀幅二間のところに、菰堰または大堰と呼ばれた堰が設けられ、当所に七左衛門・越巻・大間野各村耕地の一部灌水に用いられる用水取入れ口があった。当堰も用水入用のときだけ菰張りでこれを堰留めたが、用水入用期間中でも大雨満水のときは、そのつど堰を切払って水を落すことになっていた。訟を見合わせた。この結果八郎左衛門は両袖築出しの撤去を承認したのでこのときは示談でおさまった。
その後、天保九年七月にも大雨があり、谷中村・神明下村その他の村々耕地は一円水につかった。湛水による稲の水腐を憂慮したこれら村々は、排水幹線である出羽堀の水吐け状態を見分して廻った。すると七左衛門村地内菰堰の箇所が、両袖築出しで再度狭まれており、水行きが当所で差支えていたことが知れた。このため上郷村々は八郎左衛門の議定違反を責め、両袖の取払いを申入れたが、八郎左衛門はこれを拒否した。そこで前記五ヵ村は、両袖の撤去を求め、代官伊奈半左衛門役所にこれを出訴した。これに対し八郎左衛門は、堰に両袖を築き出さねば用水を保つことができないのは自明の理であると主張し、さらに出訴村々の耕地は高場であるので水損の患いが少ない、それにもかかわらずわれわれ三ヵ村の田地相続に欠かせない菰堰取払いを願い、三ヵ村を窮地に追いこむつもりである、と反論した。この両者の争いの取調べにあたった伊奈半左衛門役所では、両者の説得にあたり、菰堰の両袖は各一尺五寸の築き出しとし、水行き幅を九尺とする。ただし大雨満水のときはいつでも堰とともに両袖を取払う、との調停条項を示し、示談内済にもっていった。