旱魃時の争論

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このように用水堰をめぐり、悪水に悩む上郷と、用水に差支える下郷の矛盾対立が多くみられるが、ことに旱魃のときの水争いは各地で深刻なものであったようである。だが当地域は平坦な低地帯で、用水量の著しい不均衝がなかったためか、血で血を洗うようなはげしい水論は史料的に見当らない。わずかながら旱魃時の水論を挙げるとつぎのごとくである。

 越巻村「産社祭礼帳」によると、寛政二年(一七九〇)は大旱(ひでり)の年であり、排水川である綾瀬川を堰止め、水車で用水を汲上げるほどであったという。このとき用水不足に困った荻島村は、同村地内の末田用水路に新規の関枠を設けて用水を取水しようとした。このため神明下村・谷中村はじめ下郷村々はこれに抗議して争論となり、奉行所にこれ

 ところがこの菰堰の設けられた箇所は、いつの間にか左右から土盛した両袖が築かれて堀幅が狭められ、その水行き幅は五尺二、三寸ほどになっていたという。このため天保六年の大雨満水時には菰堰を取除いても出羽堀の水吐けは当所で滞溜し、越ヶ谷・荻島・神明下・谷中・砂原の上郷各町村耕地は一円に水冠りとなり水損が大きかった。そこで前記村々は、菰堰箇所の両袖築出しを取払うよう七左衛門・越巻・大間野の三村に申し入れた。三村はこの申し出を諒承したが、このうち七左衛門村名主八郎左衛門だけがこれを強く拒んだ。上郷村は八郎左衛門のこの申入れ拒否を不当として訴訟の手続きをとったが、仲裁人が入り、折衝にあたったので訴を出訴した。結局荻島村のこの堰止めは奉行所から不法なものであると申渡され、関係各村の代官・地頭一〇名の支配者立会いのもとに撤去された。

 また西方村「旧記五」によると、瓦曾根溜井から取水した四ヵ村用水は、瓦曾根・西方・登戸・蒲生四ヵ村の用水であった。この用水路は途中瓦曾根村地内の悪水堀を長さ六間の掛渡樋で渡していたが、この掛渡樋の高さは溜井元圦より床高であった。このため平年のときでも用水取入れのため元圦樋に水車を仕掛け、昼夜兼行で汲水したが、それでも登戸村や蒲生村の耕地には用水が満足に届かなかったという。

 文政四年(一八二一)、この年は稀にみる旱魃となり瓦曾根溜井の水が干上るほどであった。このため四ヵ村用水路には水が全く流れなかったので、西方・登戸・蒲生の三ヵ村は、溜井地元の瓦曾根村と対談のうえ、用水取入れ後元形の通りに復す約束で掛渡井を取払い、瓦曾根村悪水堀と交叉させて用水を取入れた。その後、大雨などで瓦曾根村の用悪水路とも水につかったので、掛渡樋を元の通りに掛けられなかったが、三ヵ村は翌文政五年掛渡樋を悪水堀の下に埋込むよう改めて瓦曾根村へ願いでた。だが溜井差配の瓦曾根村は、ほか用水組合との関係上この願いを拒否した。そこで前記三ヵ村は瓦曾根村を相手に用水掛渡樋の模様替えを奉行所に出訴したが、仲裁人が入り、折衝の結果、内法三尺四方の埋樋を瓦曾根村悪水堀の下へ通すことが認められ内済となった。一用水路においても、今日までにさまざまな経過を辿ってきたことがこの事例によっても知れよう。