恩間圦争論

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このほか用悪水に関する争論が数多くみられるが、このうち悪水堀をめぐる問題ではげしく争われたものに恩間圦争論がある。

 袋山村細沼家文書によると、大竹村地先から袋山村を迂廻した元荒川の曲流部分は、宝永三年(一七〇六)、荻島村地内を直道に疏鑿された新川によって古川に化した。袋山村ではこのとき村内の悪水落しを大林村境の古川〆切り箇所に圦樋を設けて元荒川に落したが、瓦曾根溜井の堰止の影響で次第に元荒川の川床が高くなり、川水が逆流してくるなど悪水落し圦の機能が失われた。このため悪水落し場を失なった袋山村は、恩間圦によって古川に落される岩槻領一七ヵ村の悪水をうけ、袋山村耕地は常時湛水状態にあった。

 袋山村はしばしば恩間圦の取払いを訴願してきたがいずれも敗訴に終っていたので、元文二年(一七三七)こんどは恩間村圦を掛渡樋に模様替えすることを奉行所へ強く訴願した。つまり圦樋を高くして流水量を制限しようとしたのである。これに対し上郷十七ヵ村は、古川に悪水が滞溜したときは、臨時に恩間圦の圦戸を塞ぎ、この悪水を須賀堀や千間堀へ落してきたが、それでさえも悪水を落し切れず、一七ヵ村耕地はことごとく水損をうけた。ここで恩間杁を掛樋にして流量を制限されては、いよいよ悪水が滞り、村々は相続できないと反論して争った。

 奉行所では、普請役人を出張させ、論所の実地検分を行なわせたが、その結果恩間圦は築き止めとなり、岩槻領一七ヵ村の悪水は、大里村地内の八寸圦通り長さ二六〇〇間の古堀浚渫切広げによって千間堀へ落されることになった。ただし奉行所のこの裁許では、八寸圦通りの堀筋が悪水を呑みきれないときは、恩間圦を切開いてこれを古川に落し、相互に悪水の落し口を調節するとあるので、おそらくその後も、岩槻領一七ヵ村は、不完全な八寸圦通り古堀の悪水滞溜を口実に、恩間圦から袋山村古川に悪水を落していたようである。

 このため袋山村では、寛政三年(一七九一)と天保十三年(一八四二)にも、八寸圦を切広げ岩槻領の悪水を袋山村の古川に落さないように訴願をくりかえしたが、いずれも示談による取はからいを申渡され、訴願は成功しなかった。こうして恩間圦争論は明治まで持越されて争われたのである。

須賀堀用水路