百姓一揆

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百姓一揆は徳川幕藩体制下にあって、民衆が支配者に対して団結しておこなった、もっとも強力な抵抗運動である。普通江戸や大坂、あるいは地方都市で起った闘争も含めて、これまでに全国で約三七〇〇件程発生したといわれている。その闘争形態としては、逃散、愁訴、越訴、強訴、打ちこわし、蜂起等の諸形態をとっており、中には屯集のような示威行動も含まれている。江戸時代初期には逃散や村役人層を代表とする代表越訴の形態がとられていたが、中期頃になると村役人層のみの行動では力不足で、小前百姓が村役人層と結束した惣百姓一揆=全藩的一揆に発展し、さらにこの形態は一揆の原因によっては藩領を超えた広域闘争に拡大していった。江戸末期には村落内部の矛盾がようやく表面化し、村役人層と小前層との対立が激化して、打ちこわしを主とする世直しが闘争形態の主力となった。

 いま武蔵国のうち、現在の埼玉県下における百姓一揆の発生状況をみると、およそ第42表の通りであり、約九〇件を数えることができる。このうち東武の三郡(足立・埼玉・葛飾)で発生したのは三八件で、全体の四〇パーセント強である。年代的には明和以降に増加しており、とくに天保・慶応期は著しい。これは飢饉などから生じた米価騰貴による打ちこわしが激化したことが大きな理由である。越谷市域で発生した事件は六件とみられるが、それは上に示した第43表のようなものである。

第42表 県内百姓一揆年代別件数
年数 埼玉県 東武3郡 その他 越谷市域
天正 2
文禄 4
慶長 19 3 3 0 1
元和 9
寛永 20 1 0 1 0
正保 3
慶安 4
承応 3
明暦 3
万治 3
寛文 12 1 0 1 0
延宝 8 1 0 1 0
天和 3
貞享 4 1 0 1 0
元禄 16 1 0 1 0
宝永 7 1 0 1 0
正徳 5 2 0 2 0
享保 20 3 0 3 0
元文 5
寛保 3 3 1 2 0
延享 4
寛延 3 1 0 1 0
宝暦 13 2 0 2 0
明和 8 2 1 1 1
安永 9 3 2 1 0
天明 8 9 2 7 0
寛政 12 2 0 2 0
享和 3 4 1 3 1
文化 14 6 3 3 1
文政 12 1 0 1 0
天保 14 15 10 5 2
弘化 4
嘉永 6 1 1 0 0
安政 6 2 2 0 0
万延 1
文久 3 2 0 2 0
元治 1 2 0 2 0
慶応 4 21 12 9 0
278 90 38 52 6
第43表 越谷地域の百姓一揆
年次 地域 原因又は要求 形態
慶長18 越ヶ谷 代官の非違 越訴
明和9 忍藩柿木領 先納金辺済延期 強訴
享和2 埼玉郡西方村 小作料引下 越訴
文化13 埼玉郡四町野村 村役人取扱不当 打毀
天保5 埼玉郡越ヶ谷町 米価騰貴 不穏
天保7 埼玉郡西方村 米価騰貴 不穏
安政6 埼玉郡大沢町 米価騰貴 不穏

 これらは現在残存している文献から得られたもので、文書の採集出来なかった地域から今後発見されるかも知れないが、以下これらの事件について略述しよう。