慶長の直訴

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徳川家康は放鷹を好み、江戸入府後も周辺地域でしばしば鷹狩をおこなった。とくに川越から忍に赴き、転じて鴻巣・大宮・岩槻・越ヶ谷・葛西を経て江戸に戻る行程を好んだ。この様な鷹狩は、入国以後日浅い江戸周辺地域の視察も兼ねて大きな意味を持っていた。

 慶長十八年(一六一三)十一月二十四日、越谷近郊の農民が、この家康の鷹狩の順路で、代官の私曲を訴え出た。当時はまだ直訴が許されていた時代であったので、早速その夜取調べがおこなわれたが、農民側の主張が通らず、首謀者六名が投獄されている。この事件の詳細は以上の記述が『徳川実紀』に記されているだけで、現在のところ不明であるが、越谷地域における農民闘争の先駆といってよいであろう。