西方村小作騒動

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享和二年(一八〇二)の六月二十七日から三日三晩の大風雨で、関東諸村の耕地は一円水冠りになった。さらに大雨による増水では、江戸川筋の権現堂堤が三〇〇間程、中川筋では八条領伊勢野村の堤防が六〇間程決潰した。西方村ではこの伊勢野村堤防の決潰による逆水で洪水の危険にさらされたが、老幼男女総出動の水防作業で、大きな被害から免がれた。しかし、八月六日の大風雨により西方村の耕地も相当な損失を被ったので、破免検見願を支配代官の野口辰之助役所に出すことになった。支配役所では耕地を検分したが、平年作の九厘二毛では検見の対象にはならないとして、破免願は却下された。

 このため西方村の地主は小作人に対し、年貢の減免がないうえは、一反につき三升宛の小作料の引下げしかできないと通告した。これに対し小作人側は、小作入付は一反につき九斗から一石五、六升の作徳納入なので、僅か三升ほどの小作料引下げでは、小作料の納入に差支えるとして、地主に対しさらに小作料を引下げるよう要求を続けた。しかし、地主側は三升以上の引下げはあくまで応ずることが出来ないと、小作人側の要求を拒否したので、窮地に立った小作人側は、江戸の奉行所に赴き、奉行所門前で役所元締壁(ママ)谷太郎兵衛に越訴を決行した。奉行所ではこれに対し、徒党の先導とみられる孫八・浅右衛門・久右衛門・宇兵衛・幸左衛門の五名を手鎖にして奉行所に留置、他の者は一〇人または一五人位づつ江戸宿八軒に分宿預けの措置をとった。このことから越訴の集団は一〇〇名以上にのぼったものと思われる。

西方十一面観音堂

 小作人による越訴の報をうけた西方村役人は驚愕し、夜中を急行して江戸に到着、翌朝支配役所に届出をすませた上、奉行所に着届けの手続をとって、小作人の赦免願いを提出した。ところがこの願書の文面中に「小前どもの願い筋は惣代を立てて取調べを願う」という文言があったため、奉行所役人に咎められ、「この度の徒党強訴は、村役人が小前百姓の後押しをして決行したものとみられる。いずれ徒党の発頭人を調べて厳重に処分するが、不埒な取計らいにより一同手鎖を申付ける」とおどされ、夕方まで白洲に留置された。すなわち訴願には村役人――支配役所――奉行所という順序があり、この手続きによらねば奉行所に訴願することは許されなかった。したがって支配役所を越えて奉行所に調べを乞うという趣旨は、村役人が違法を認めたうえでのことととられるものであった。

 この強訴一件は翌日から取調べが行なわれ、まず一行の中の最年少者である馬喰長次郎の下男長蔵から尋問がはじめられた。長蔵は知合いの伴七からの申し次ぎで、訳のわからぬまま参加したと答え、伴七は知り合いの忠右衛門からの申し次ぎで加わったと答え、忠右衛門はまた知り合いの幸七からの申し次ぎで参加したと答えた。このようにして次々と一同のうちの約半数の者が尋問されたが、答えはいずれも知り合いの者からの申し次ぎで参加したということで、強訴の発頭人を尋出すことは出来なかった。このほか老幼男女の別なく強訴に関係あるとみられる者が、村元から呼びよせられて取調べられ、その日は一同夕方まで白洲に留置された。次いで翌日も引続いて取調べが進められたが、西方村安養院と東光院の二住僧が出府し、願下げの嘆願書を提出するに及んで一件は不起訴処分となり、村役人をはじめ惣小前連印の始末書を提出し一同は釈放された。この際村役人は米一五俵を拠出し、小前の困窮者に施米を行なうことが申渡された。

 一件落着後、問題の原因となった小作料引下げ交渉の経過と結果は明らかでないが、おそらく双方の和談が成立したものとみられる。その後翌三年一月、孫右衛門をはじめ西方村の大地主四名が代官所に召喚され、小作騒動の責任をとわれ、過怠として奇特米一〇〇俵の拠出を申渡されている。この奇特米のうち七〇俵は、水害の甚だしかった二郷半領のお救米としてあてられ、残り三〇俵が西方村困窮者の施米にあてられることとなった。