天保七年(一八三六)は夏から秋にかけて冷雨が降り続き、さらに再三にわたる大嵐があって、全国的な大凶作となった。西方村でも畑作は全滅し、稲も育たず青立が多くて不作であった。こうした状態に困り、破免検見を願い出たが代官役所では破免を許さず、収穫が平年作の二、三割減程度とみえるので、高持百姓が困窮百姓の年貢分を融通して、定免通りの年貢量を納入するよう申渡した。
しかし、収穫の結果は、当初の見込みと相違し五割方の損毛であったため、高持百姓はこれでは自分らの年貢上納にも差支えるとして、困窮百姓の年貢米負担を拒否した。小前百姓は約束違反だとして、村内大聖寺籠堂に一二〇人余が集合し、高持百姓が年貢米を融通しないため、年貢納入が出来ないことを支配役所に訴え出ると騒ぎだした。これを知った村役人は、大聖寺籠堂にかけつけ、騒ぎ立つ小前百姓の説得につとめた。小前百姓は生死にかかわることなので、融通米による年貢上納を認めない限り、出府して訴願をするより方法がないと譲らなかった。そこで村役人も融通米による年貢納入を承知し、例年にない大不作にも拘らず、定免通りの年貢量を上納することとなった。このため西方村ではほとんど一粒の米も残らない有様で、その日の夫食にも差支え、早くも同年十月には夫食の急難拝借を伊奈半左衛門代官所に願い出る始末であった。